あれから数日が過ぎたが、ビクトールの目が治る気配は少しも感じられない。医者も気に
 してくれているのか、毎日のように宿屋に来てはビクトールの様子を見てくれる。なかなか
 患者想いの医者だと感心していたら「あの人は毎日のように、ウチに酒を飲みに来るから
 そのついでだろ」と女将が笑って教えてくれた。そのまま女将の仕事を少し手伝って部屋
 に戻ると、ビクトールが窓辺に腰をかけていた。


「危ないぞ」


 ちゃんと声をかけて近づく。どうも真の紋章である私の気配を感じる事が出来ないらしく
 黙って側に来ると驚くと言われたので、それ以来律儀に声をかけてから近づくようにして
 いる。


「平気だって。この部屋の間取りは大体覚えたし。それに、少しでも外の雰囲気を感じてお
 きたいと想ってさ」


 持って生まれた才能か、それとも野生の感か…。ビクトールは周囲が驚くぐらいに、視力
 に頼らないで行動を取る事が出来るようになっていた。少しぐらい歩き回っていても、何ら
 困ることは無いだろう。


「それに何時までも、ここにいるワケにもいかないしさー。そろそろ出発の準備をしておか
 ないと、戻るのが遅くなるだろ?」
「戻る?ノースウィンドゥにか?」
「違うよ。アウラのいる解放軍にだ」


 ビクトールの視力が失われていなかったら、おそらく口を空けて間抜け顔をしていた私の
 顔が映った事だろう。
 正気か、この男は。
 視力が失ったというのに、まだ解放軍で戦うつもりなのか。


「貴様…自分の立場を理解しているのか?」
「ん?何か変なコト言ったか?」


 本当に不思議そうに、ビクトールが聞き返してくる。
 そうだった。この男は、そういう男だったのだ。
 一度決めた事は最後まで、どんな手段を取ってもやり遂げる男だ。長年追い続けていたネ
 クロードを打ち倒したのだから、もう自由になっても良いと思うのに、解放軍リーダーと交わ
 した「必ず戻ってくる」という約束を、律儀に守ろうとしている。


「変な奴だな」


 この男と出会ってから幾度も思った言葉を言う。
 多少歪んではいるものの、この男の資質は純粋だ。私という自我が目覚めてから、気の遠
 くなる月日を重ねてきたが、こんな人間は初めてだ。
 おそらく、多分。


「人。とは、貴様のような奴の事を言うのだな」
「何ワケのわかんねー事言っているんだ?」


 そう言って笑顔で返す姿を見て、私は知らず微笑んでいた。
 見えないのをいい事に、じっとビクトールの顔を眺めていると、何か違和感を感じた。
 何だ…?
 微かだが、ビクトールの体から何かを感じる。それはとてもビクトールの中に溶け込んで
 いて、今でもその正体が掴めない。
 昼間では、力が思う様に発揮できないか…。
 夜を司る私の力は、今のような真昼の時だと、本来の半分ぐらいしか能力を使う事が出来
 ない。まぁ半分とはいえ、それだけでもかなりの力があるのだが、ビクトールの中に隠され
 た『何か』を見つける事が出来ない。


「どうしたんだ星辰剣。急に黙ってさ」
「いや。何でもない」


 隠れたか。
 微かに残っていた気配さえ綺麗に払拭し、その『何か』は跡形も無く消え去った。
 仕方がない。こうなったら夜が来るのを待って、正体を確かめてみよう。
 そう考え、何気にビクトールの髪に手を入れると、その体が異様に熱い事に気づいた。


「貴様…また熱が出ているぞ」
「え?嘘っ?マジで?」
「確か、あの医者から体温計貰っていたな」


 そう言ってベッドの側に置いている机の上を探して、お目当ての体温計を発見すると、ビ
 クトールに咥えさせた。
 それから無言のまま三分経過すると、体温計を取りだし、その数値を確認して唖然とした。


「八度九分…?」


 それを聞いてビクトールは「ゲッ」と短く叫んだ。これだけの高熱を気づかないとは、一体
 どんな体なのだ貴様は。


「体調が完全でないのに動き回ったせいだろうな…。だから大人しく寝ていろと言っておい
 ただろうが」


 ここで怒っては大人気ないと思い、出来るだけ気持ちを抑えて言ったが、それが逆に恐く
 なったのだろう。ビクトールは素直に反省の言葉を述べ、大人しくベッドに戻った。


「何かさー、最近の俺の体って異様に病弱だよなー。こんなに熱出したのって生まれて初め
 てだよ」


 ベッドの上でゴロゴロと転がりながら、誰に聞かせるでもない文句をブツブツと言う。
 いいから大人しく寝ていろ。


「今迄、無病息災だったのが変だったのではないか?」
「んなワケないじゃーん」


 ベッドに転がりながら、うめくように呟く。


「何かさー、まるで呪われているような不幸っぷりじゃねーの、俺?」
「何をくだらない事を…」


 そこまで言って、何だか嫌な予感がした。いや…でも、まさか…なぁ。しかし先ほどの妙
 な気配もあるし、否定は出来ない。
 そう言えば、視力を失った時も、今みたいに熱を出してはいなかっただろうか。それに気
 に係る事がもう一つ。


「ビクトール」
「何だ?」
「いや…。確か前に、変な夢をよく見るって言っていたが、今もまだ見るのか?」
「ああ。あの後、暫く見なかったんで安心していたんだけどさ、何かまた見だしたみたいで」


 その言葉を聞いて、古より伝わる呪術の事を思い出した。
 それは相手に、ほんの小さな傷を与えるだけで良い。
 その傷口から、己の死と引き換えに、ある術を施した種を埋めこむのだ。種はやがて相手
 の血脈に潜り込み、そこから体全体に根を這わせ、体の機能を一つずつ壊していく。
 自分の体の中に、呪いの種子が埋め込まれていても、大抵の人間がその事実に気づく事
 が出来ない。だが、体は本能的に異物を排除しようとするのだろう。それに抵抗するかの
 ように高熱を発したり、悪夢を見て危機感を知らせようとする。
 だが気づいた時にはもう既に手遅れで、体の機能は全て奪われ、血管や神経が種子の根
 に覆い尽くされてしまう。
 一気に殺さず、ゆっくりと追い詰めるように恐怖を与える呪術。
 しかし、この術は太古に滅んでおり、今の人間達の中で使えるものは存在しないはずだった。
 この術を記憶しているのは、自分のように時を越えて生き続けるモノ達だけ…。
 ネクロード…。
 その名前が瞬時に思い出された。
 月の紋章を奪い、自ら化物に成り果てた愚かな男。
 私とビクトールによって、その生を抹消させられた男。
 アイツか?アイツの仕業なのか?


「…ビクトール。少しじっとしていろ」


 そう言って、ビクトールに何かを言わせる暇もないまま、その服に手をかけて器用に脱がし
 ていった。
 ビクトールは自分の身に何が起きたのか把握出来ず、硬直している。まぁ、楽で助かったが。
 上着を脱がして、その下に着ていたシャツも脱がすと、さすがに何か変だと思ったのか、ビ
 クトールが抵抗してきた。


「なっ何しやがるテメェ」


 顔を真っ赤にして、殴りかかってきた。それを軽やかにかわして、程よく引き締まったその
 体を晒し出す。
 ……やはりな。
 体のあちらこちらに、生々しい傷痕が残るその体。だが、どれも古いモノばかりで、視力を
 失ってからというもの、戦闘などしたくても出来ない状態である。
 なのに、今も生々しく赤黒い染みで覆われたその包帯は何なのだろう。
 暴れるビクトールを片手で抑えつけて、その包帯をゆっくりと剥がした。今もじわりと血が
 浮かんでいるそれは、何処か非現実めいていて異様な姿だった。


「…この傷はどうした?」


 その声を聞いて、私が何をしたかったのか理解したビクトールは、少し考え込んだ後、溜
 息をついておとなしく白状した。


「…ネクロードと戦っていた時についたみたいなんだけどさ…なかなか治らなくて……」
「何故、言わなかった」
「言うほどじゃないと思ったんだよっ。それぐらいの傷なら、しょっちゅう受けているし、直ぐに
 治るから…」
「ここまで治りが遅いのは、変だとは思わなかったのか」
「最近の体調不良のせいで、免疫が低下しているのかと思ったし。あ、この包帯は女将さん
 が巻いてくれて……」
「この馬鹿が」


 自分でも情けない声だと思った。事実、如何し様もない感情が自分の中で渦巻いている。
 情けなかった。
 何も気づけなかった自分が。


「悪い…星辰剣……」


 無言になった私に、ビクトールが謝罪の言葉を言う。


「何故謝る…」
「何か俺、お前に迷惑かけてばっかだな」
「いや…お前に非はない……」


 そうだ。ビクトールは何も悪くない。
 全ての元凶は、あの男にある。
 何処までも醜い男だ。


「星辰剣?」


 暖かい手が頬に触れた。見えないので、手探りで私を探し当てたのだろう。頬に当てられ
 た手を強く握り返すと、戸惑いながらも安心するように笑った。
 互いに無言のまま、ただ静かに時だけが過ぎていった。気がつけば、窓の外は宵闇に包
 まれ始めている。階下から女将の食事を告げる声が聞こえてきた。と、同時に、ビクトール
 の腹が盛大に鳴る。


「腹減った」
「言わなくてもわかる」


 例えどんな状況にあっても、食欲があるのがビクトールらしくて安心する。


「少し待っていろ」


 食事を取りに行く為に立ちあがって、静かに部屋の外へと出ていく。廊下から見える窓の
 外は、もう太陽が完全に沈んでいた。
 もうすぐ夜がくる。
 私の力が最も発揮できる時間が。

 

 

 

 

 

 

 

 

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