「最初はね、フリックさんが隊長だと思ったのよねぇ」
突然自分の名前が会話に出てきたので、フリックは読んでいた本から顔を上げた。 自分が現在いる場所は、図書館の一番奥にある書庫。 一人で静かに本が読みたかったので、人目につかないようにしていたせいか読書に没頭し ていたせいか、目の前にある本棚の向こう側に、ナナミとニナが来ている事にも気づかなか ったようだ。 一瞬ヤバイと思ったが、向こう側も自分に気づいていないようなので、このまま静かにし てやり過ごす事に決めた。こんな所でニナに見つかったら、只では済まないのは目に見えて いるからだ。 それに自分の話題が出ている事も少し気になる。 どうもニナは、ナナミが最初の方から自分と一緒に旅をしていたからか、いろいろと人の 情報を聞き出そうとしている。 何か変な事でも噂されていたら堪らない。 立ち聞きは趣味ではないが、この場合仕方がないだろう。 フリックは自分にそう言い聞かせて、二人の会話に耳を傾けた。
「威厳が無いというのかなぁ。何だろう。後でビクトールさんが隊長だと聞かされた時、え? この人で大丈夫なの?って思っちゃったもん。あっ、酷い意味じゃないのよ?」 「ようするにアレでしょ?隊長の威厳も風格も無いっ。て事が言いたいと」 「……そうなるのかなぁ…」
どうやら二人の話題は自分ではなく、相方のビクトールの方らしい。 それにしても滅茶苦茶に言われているような気がするのは気のせいだろうか。
「だってさ、フリックさんの方が顔も名前も知られているのよ?フリックさんの方が隊長に 相応しいと思わない?さすがフリックさんって感じよねぇ」 「ニナちゃん…。何がさすがなのか、よくわかんない……」
心の中で、ナナミの突っ込みに拍手を贈る。
「でも、傭兵の皆には慕われていたんだよねぇ。他にも、捨て猫や捨て犬や捨て馬なんかも 直ぐ拾って来て、フリックさんに怒られていたし…」 「益々、隊長らしくないじゃない」 「そうなんだよねぇ…」
フォローしようにも実にその通りなので、ナナミにも上手い言葉が見つからないようだ。
「何であんな人が、傭兵をしているんだろう…」
ナナミの言葉に、フリックの周囲の空気が一瞬、全ての音を包みこんだかの様に止まった。 それは多分。 ナナミ達がビクトールという人物を上辺だけでしか見ていないからだろう。 一緒に戦ってきて暫く経つが、本当の意味でのビクトールの戦い振りを、実は誰も知らな いのではないのだろうかと思う。 知っているのは自分と、前の解放軍にいた連中ぐらいだろうか。 あの笑顔の向こうに、どれだけの脆さと狂気を抱えているかなんて、自分だって長年付き 合って来なければ気づかなかったモノだ。 普段のアイツを見ていれば、おそらく想像すらつかないだろう、その姿。 初めて見たのは何時の頃だったろうか。 今でも鮮明に覚えている、紅い記憶。 無造作にに転がっているだけの死体の群れ。 その中央に、夕日を背に向けて返り血を全身に浴びたビクトールが只立っていた。 自分を見ているようで、実は何も見ていなかったのではないかと思わせる、その瞳。 その姿を見て、初めて恐怖感に似た、だがそれとは程遠い感情を覚えた。 ああ。 何でコイツは、こんなにも孤独な存在なのだろう。 知らず、そんな事を思っていた。理由は今もよくわからない。 だけど、その言葉が、その光景を見た自分の素直な想いだった。 ビクトールという存在。 それだけが、自分の存在理由であるかのような感情。 胸が苦しくなって、何だか泣きたくなるような想い。そして理由のない苛立ち。 そんな事をぼんやりと感じていた時に、ビクトールの視線がようやく現実に戻った。 直ぐ側で立っている自分に気づいたのだろうか、少しキョトンとした顔をすると、その顔 を歪めて無邪気に笑う。 返り血を浴びたその姿に、アンバランスに写る子供のような笑顔。 息、が止まって。 心、が奪われた。 その姿を見て初めて、ビクトールという人間の本質を見つけたような気がしたのだ。
「まだ、ほんの欠片でしかないけど…」
知らず声を漏らし、フリックは我に返る。 まさかナナミとニナに気づかれたのではと様子を覗ってみるが、本棚の向こう側はやけに 静かで、人のいる気配はなかった。 どうやら閉館時間が近づいたため、何処かに場所を移動したようだ。 フリックは安堵の溜息を吐いて、窓の外を眺めた。 先程まで青く澄んだ空は終わりを告げ、全てを紅く染めている。 まるで、あの日のような紅。
「ビクトール…」
あの日からずっと続いている、この想い。 ビクトールという人格を知れば知る程、この想いは積み重なっていくように増えていく。 だが、男女で言う恋愛感情とは何処となく違う。 この想いを、人は何と呼べば良いのだろうか。 触れたい。側にいたい。声が聞きたい。笑顔が見たい。 護ってあげたい。
「…アイツは大人しく護られるタイプじゃないけどさ」
それどころか、逆に自分の方が護られているような気がする。 オデッサを失った時に、荒れていた自分の心を癒してくれたのもビクトールだった。 それは、ビクトール自身が、大切な人を失った気持ちを知っていたから。 あの時の事を考えると、かなり落ち込んでしまう。自分はかなり、みっともない行動をと っていたからだ。 今は、と聞かれると。 まだ駄目な時もあるけれど、少しは成長したように思う。いや、思いたい。 だから、今度はビクトールを護りたいと思うのだ。 その心を。 自分にしてくれたように、癒してあげたいと願ってしまうのだ。 義理でも何でもなく、あの姿を見た時からそう決めていた。 それは、とてつもなく自分勝手な想いだけれど。
「ああ…そうか……」
フリックは、紅い空を見ながら、自分の中に舞い降りてきた言葉に気づいた。 この想いは。
「愛しい…って言うんだな」
その孤独も狂気も純真さも。 全てが愛しい。