「お兄さん、新鮮な果物が入っているよ。見ていかないかい?」
ローレライ教団本部が置かれている都市ダアト。その教団へと続くメインストリートには、 賑やかな商店がいくつも並んでいる。 青果を商いとしている女性は、その道を颯爽と歩いている、黒の教団服を身に纏った男性に 声をかけた。全身黒ずくめのせいだろうか、深い紅の髪が栄えてやけに目立っている。 男は億劫そうに、声をかけてきた女性を振り返った。思わず見とれてしまうほど整った顔立 ちをしていたが、その眉間には深い皺が刻まれていた。しかし客商売が長い女性は、そんな 表情を無視して勢い良く接客を始める。
「今日はエンゲーブから入荷したばかりの果物がいっぱいだよ。特にお勧めなのが、この苺。 食べたらたちまち元気が出てくるってもんさ」
差し出された苺を見て、男はますます皺を深くする。 これは、あれか。 何かを買うまで、この店から離れられない。そんな状態ではなかろうか。 女性はイキイキとしながら、お勧めの果物を紹介していく。その威勢の良さからか、それと も男が立ち止まったからか、青果店はいつの間にか小さな人垣ができていた。 その自分の置かれた立場に気付いた男の皺は、更に深くなっていった。
ノックも無しに開けられた扉に驚いて、ミュウはビクリと耳を動かした。
「…起きたのか」 「アッシュさん!」
部屋に入ってきたのがアッシュだとわかり、ミュウは警戒心を解いていく。
「おはようございますですの。あの、アッシュさんが僕をここまで運んでくれたですの?」
耳をピクピク動かしながら、ミュウは自分がいる部屋をぐるりと眺めた。簡素な内装の部屋 ではあるが綺麗に片付けられており、今迄自分が寝ていたベッドもきちんと整えられていた。
「ここはダアトの宿屋だ」 「ダアト?」
言われた土地の名前に驚いて顔を上げると、突然頭上から幾つもの物体が落ちてきた。
「みゅみゅ〜!?」
固い物やら柔らかい物に潰されたミュウは、必死にその中から這い出ようとする。うんうん と小さな腕を動かして、ようやく自分の上に乗っていた物体を転がすと、今度はその物体の 正体に驚いてしまった。 苺。林檎。キウイ。オレンジ。バナナ。他にも様々な果物が、ベッドの上に散らばっていた。
「みゅぅぅ〜!凄いですの凄いですの!果物がい〜っぱいですの!でも、こんなに沢山どう したんですの?」
素朴な疑問だったが、そう聞くとアッシュの眉間の皺が深くなった。何だかわからないが、 嫌な事でもあったのだろうか。ミュウは不思議そうに頭を傾けて、アッシュを見つめる。
「…チッ!いらないなら捨てるぞ」 「だっ、駄目ですの!食べるですの〜!」
本気で捨てようとしたアッシュを必死に止めて、ミュウは目の前に転がっていた苺を掴んだ。 そして勢い良く囓りつく。甘い味が広がり、ミュウはやっと自分が空腹だった事に気付いた。 そういえばと、口を必死に動かしながらミュウは考える。 あの時。 あの森でアッシュと出会った後、緊張の糸が切れて倒れてしまったまでは覚えている。そし て目が覚めたら、この部屋にいた。しかもアッシュがここにいるという事は、アッシュが自 分をここに連れてきたわけで。 チラリとアッシュに視線を向けると、彼はどっかりと椅子に座り、ただじっとミュウを見て いた。 いや、違う。 ミュウを通して、何かを見つけようとしていた。 その瞳に、ミュウはドキリとする。 ああ、そうだ。 彼はそうだった。 彼なら、同じ存在であるあの人を見つける事ができるのだ。 あの人を忘れようとしている世界の中で、この人はまだ彼を覚えている。 例えそれが、憎しみであっても。 アッシュの中にまだ、いる。 ルークの存在が、いる。 ミュウはその事実に、どうしようもない喜びを感じた。
「アッシュさんは、ご主人様に会いたいですの?」 「……!!」
突然かけられた言葉に、アッシュは激しく動揺する。 ミュウは苺を食べる手を止めて、じっとアッシュを見つめた。子供だからか、それとも聖獣 だからか。ミュウの瞳は、何もかも見据えているようだ。
「…レプリカが、死んだと聞いた」
その口から出た言葉に、ミュウの耳がビクリと動く。
「音素が剥離して、消えてしまったと聞いた。冗談じゃない。俺から何もかも奪っておいて、 勝手に消えるなんて、そんなふざけた事を誰が許すか」
右手をギュッと握りしめ、言葉を続ける。その手は怒りからだろう、微かに震えていた。
「だが詳しく聞いてみれば、屑と一緒にお前も消えたそうじゃないか。なのに何で、消えた お前がここにいる。それに、あの森の中で俺は確かに、あの屑の音素を感じた。そうだ、あ いつは生きている」
アッシュは椅子から立ち上がると、ゆっくりとベッドの側へと歩いて行く。そしてそのまま ミュウを見下ろし、勢い良く右手をベッドへと叩きつける。
「あの屑は何処だ!!」 「みゅっ!」
突然の激昂にミュウは驚くが、それでも真っ直ぐにアッシュ見ていた。 怖くない。 この人は、怖い人じゃない。 だって。
「…ご主人様が言っていましたの。アッシュさんが、ご主人様に外を見せてくれたって。そ れをとても感謝しているって」 「……っ!」 「僕も感謝していますの。アッシュさんは、最初から偉そうで直ぐに攻撃してきて、それは 今も変わらないですの」 「……喧嘩売ってるのか」
今にも剣を抜きそうなアッシュの雰囲気に、ミュウは慌ててプルプルと頭を振る。
「アッシュさんはどんな形でも、ずっとご主人様を見ていてくれましたの。だからアッシュ さんには、きっとご主人様がわかりますの。ご主人様が、見えますの」
ミュウは小さな両手を上げる。その姿はまるで、神聖なる何かに祈りを捧げているようだっ た。
「ご主人様」
彼を、呼ぶ。 大切な人を。 ミュウにとって、何よりも大切で大事な人。 すると、ミュウの掲げた両手に煌めく音素が集まり始めた。 その音素はキラキラと光り、鈴のような音色を奏でている。 それは、見た事もない輝き。 それは、聞いた事もない音色。 アッシュはその音素の美しさに、一瞬思考が奪われてしまった。しかし次の瞬間、その音素 振動数に気付き愕然とする。 間違えるはずがない。この音素は。
「…レプリカ?」
そうだ。この音素はルークのものだ。 信じられない光景を目の当たりにし、アッシュはただ呆然と立ち尽くすしか出来なかった。
「…やっぱりアッシュさんにはわかったですの」
アッシュの呟きを聞いたミュウは、嬉しそうに耳を動かす。
「ご主人様。まだ眠ってるですの?」
音素は柔らかい球体の形をとり、ミュウの手の上でクルクルと回っている。大きさは、人の 掌ぐらいだろうか。こんな小さな音素が、ルーク。
「…どういう…事だ?」
必死になって声を出す。しかし極度の緊張からか、喉が張り付いて乾いた声しか出ない。 そんなアッシュをじっと見つめて、ミュウはその小さな口をゆっくりと開いた。
「ご主人様には、音素しか残されていないんですの」
その言葉の意味を、瞬時に理解する事は出来なかった。
「ご主人様は、一回バラバラになってしまったんですの。悲しい事がたくさん起きて、信じ られるものが全て無くなって。…ご主人様の音素は、ご主人様を繋ぎ止められなかったんで すの」 「剥離現象…か」
聞いた事はある。レプリカという存在は、第七音素だけで構成されているが故に、剥離現象 が起こりやすいと。 おそらく、あのアクゼリュスの出来事が、ルークの音素を不安定にさせたのだろう。 だからあんなにも簡単に、自分の中に閉じ込める事ができたのか。 ユリアシティからワイヨン鏡窟までの出来事を思い出し、アッシュは忌々しげに舌打ちをす る。
「…この屑野郎が!」
何を甘えた事をしてやがる。 アッシュにとってこの現象は、ルークが現実から逃げた行動のように見えた。 冗談じゃない。誰が逃がすものか。 アッシュはルークを掴もうと、その手を伸ばした。指先が音素に触れたその時。
「……くっ!!」
突然、音素から大量の粒子が溢れ出した。 溢れ出した粒子は、一斉にアッシュに向かい、その体を覆い隠してしまう。
(何なんだ!?)
粒子の洪水に、アッシュは目を開ける事も、声を出す事もできない。ただ、波のように流れ る粒子のざわめきが聞こえてくるだけだった。
(くそっ!同質の音素に反応しやがったか!)
完全同位体である自分達だ。音素だけになったルークは、同じ音素を持つアッシュに共鳴し てしまったのだろう。 流れる。 音素が。 粒子が。
『……ぃ』
ルークが。
『…わい』
流れて、くる。
『怖い』
『怖い』
『怖い』
『怖い』
『怖い』
粒子の波の間から微かに聞こえてくる、子供の声。
『怖い』
『怖いよ』
『ごめんなさい』
『たくさん殺した』
『殺してしまった』
『ごめんなさい』
悲しみ、恐怖、後悔、絶望。 いろんな暗い感情が混ざりあい、アッシュに流れてくる。 ルークの心が流れてくる。
(…これが…、レプリカの?)
それは果てしない暗闇だった。 先の見えない泥の沼の中にいるような、そんな気持ちにさせる。 信じられるだろうか。 これが、あのルークの感情だなんて。 誰が、信じるというのだろうか。 何も知らない憐れなレプリカ。 ただ利用されるだけの存在。 そう、思っていたのに。
(……くそっ!)
ルークの感情に、アッシュが引き摺り込まれていく。 闇に飲み込まれていく。 だが、そこでアッシュは気付いた。 ルークの闇の奥深くに、微かだが暖かい光がある事を。 それはとても小さな光だった。だが、その光はこの闇を照らそうと力強く輝いている。
『怖い』
『怖い』
『ごめんなさい』
『……すの』
『怖い』
『…いますの』
声に重なるように聞こえてくる、別の声。
『側にいますの』
『ずっと側に』
『離れませんの』
声が聞こえてくる度に光は、強く、強く光輝いていく。 あんなにも深かった闇が、ゆっくりと薄れていく。 泣いていた声もいつしか止み、聞こえてくるのは優しい声だけだった。
『大好きですの』
『ご主人様』
『大好きですの』
その言葉が聞こえたと同時に、眩い光が生まれた。 その光は、アッシュの心まで照らし出していく。 だから気付いたのかもしれない。この光もまた、ルークの心だという事を。 あの小さなチーグルの声が、ルークの闇に光を生み出したのだという事を。
(…レプリカ。お前は……)
暖かな光に包まれ、何かをルークに感じた瞬間、アッシュを取り囲んでいた粒子は消え去り、 見覚えのある宿屋の部屋が視界に入ってきた。 突然の変化に呆然とするが、次に視界に入ってきたものに気付き、アッシュは息を飲む。 先程まで球体だった音素の形態が変化していた。 長く朱い髪。小さな体。閉じられた瞳の色は、きっと碧だろう。 そこに、ルークがいた。 小さな子供の姿をした、ルークがいた。 フワフワと浮かんでいるルークは、やがて一つ身震いをすると、その閉じられた目をゆっく りと開けていった。