『うわああああぁぁあぁぁぁぁっっっ!?』
ルークは、まるで目の前に幽霊でも現れたかのように驚くと、慌ててミュウの後に隠れた。
隠れても意味は無いのだが、気分的にそんな心境だったのだ。
しかしそのような行動は、アッシュの眉間の皺を深くさせるだけである事に、ルークは気付
いていない。
「みゅ!?どうしたんですの、ご主人様」
『な…何でアッシュがいるんだ?』
「アッシュさんは、ミュウを助けてくれたですの!」
『へ?』
勢い良く答えたミュウの言葉を聞いて、ルークは間の抜けた声を出してしまう。
アッシュが、ミュウを、助けた?
何それ。何処の言葉?
ルークの思考は、現実を受け止める事を拒否したようだ。
ぽかんとした表情のまま、まるで人形のようにギリギリと首を動かすと、その視線の先に背
後から黒い音素を発しているようなアッシュがいた。その表情は、見た者を確実に恐怖のど
ん底に陥れらるぐらいに怒りに満ちている。
「……いい度胸だな。この屑」
『ひぃぃ!ごめんなさいごめんなさいごめ…ん?』
あまりの恐ろしさに思わず謝ってしまったが、ルークはある違和感に気付いて、恐る恐るア
ッシュの顔を覗き込んだ。
大きな瞳でじっと見つめれたアッシュは、妙な居心地の悪さを感じる。
相手がルークだとは理解しているのだが、小さな子供にこうやって見つめられるのは初めて
の行為だったのだ。しかしここで視線を反らしてしまえば、何だかわからないが負けた気が
するので、アッシュもじっと見つめ返した。そんな二人を見て、ミュウは不思議そうに首を
傾げるが、自分も主人に習って、アッシュを見つめてみた。よくわからない時間だけが、こ
の部屋の中を流れていく。
『………見えるの?』
ぽつり、とルークが呟いた。
『俺が、見えるの?』
「…何くだらない事言っていやがる」
ルークの、当たり前の問い掛けにアッシュは呆れた。
だがルークはその返答を聞いて、信じられないといった表情を見せる。
『声も…聞こえるのか?』
「ああ。テメェの馬鹿面も見えるし、間抜けな声も聞こえるさ」
『……っっ!!』
小さな息を飲む音。それから顔を伏せて、ルークは少し震えた。
「………おい?」
その様子を見て訝しげに声をかけると、ルークは勢いよく顔を上げて輝くような笑顔を見せ
た。
今迄見た事のない、ルークの笑顔。
瞬間、アッシュの胸の奥で何かが蠢いた。
『どうしよう。俺、凄く嬉しい』
「…嬉しい?」
『俺がここにいるって、ミュウの力を借りないでも気付かれたの、初めてだ』
そう、言われて。
アッシュは先程、ミュウに言われた言葉を思い出した。

 

ご主人様には、音素しか残されていないんですの。

 

子供の姿をしたルークに気をとられていたが、よくよく見てみればその体は薄く透けており、
それだけでもルークが生身の体ではない事がわかる。そっと手を伸ばしてみたが、その体に
触れる事は叶わず、微かに音素が揺れるだけだった。
『…まあ、触る事までは無理か』
「みゅぅぅ…。でも、見えるだけでも凄いですの!」
『そうだな。あんまり贅沢言っても仕方ないか』
にへら、と笑うルークの姿と、先程伸ばした手を交互に見つめる。
「…説明しろ」
何なんだ、これは。
いったい何が起きたと言うのだ。
「ワイヨン鏡窟で回線を切った後、貴様らに何があったんだ。説明しろ。全部だ」
アッシュの、その静かな声を聞いて、ルークとミュウは顔を見合わせた。
「ご主人様」
『うん。アッシュには、聞いていてもらいたいな』
「はいですの」
ならば、とミュウが立ち上がり、その小さな両手をルークに差し出した。
すると、お腹に回したソーサラーリングが輝き、それに反応するかのようにルークの音素も
輝きだす。
瞬間。
ルークとミュウの輝きは一つになり、その姿を隠してしまう。そして光が薄らぎ、ゆっくり
と消えた頃には、そこにルークとミュウの姿はなく、青い髪に紫水晶の瞳をした子供が、ベ
ッドの上にちょこんと座っていた。ルークのような音素だけの存在でない、生身の体を持っ
た子供だ。
「…まあ、こういうわけで」
『わけですの』
ピョコン、と子供の肩から先程のルークと同じような、音素体となったミュウが姿を見せた。
つまりは。
「……まさか、レプリカか?」
そういう事で。
肯定の意味を込めた子供の笑顔を見て、アッシュは軽い眩暈を覚える。
そんなアッシュを見て、ルークは…セントビナーでカルマと名乗った子供は少し笑うと、そ
の口をゆっくりと開いた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ワイヨン鏡窟から意識を離された後、ルークは自分の体に戻る事ができずに、音素体のまま
佇んでいた。
ただ、ぼんやりとした表情で、横たわっている自分の体と、側で俯せたまま眠っているミュ
ウを見つめる。
ピクリとも動かない自分の体は本当にただの人形のように見え、自分の事なのに何処か他人
事のような気分になる。
アクゼリュスの事件で自分の正体を知り、アッシュの中から世界を見せられたルークは、自
分の存在と犯した罪を許す事が出来なかった。
たくさんの人を殺した。
それを認めなかった。
俺は悪くない。俺のせいじゃない。
そう叫んだ時の皆の冷たい反応は、当然のものだったのだと今更ながらに気付き、もう取り
換えしのつかない事なのだと思い知らされた。
何故なら、アッシュから見た皆の反応はどれも同じで。
皆、ルークの行いを非難していて。
ツキリ、とルークの心が痛む。
ごめんなさい。
ごめんなさい。
何も知らなかった。知ろうとしなかった。
誰も自分に本当の事を教えてくれないと諦める前に、自分から動くべきだったのだ。
ツキリ、とまた痛みが走る。
その度に、ルークの中から何がホロホロと剥がれていくのがわかった。
ごめんなさい。
ごめんなさい。
どうして自分は生まれたのだろう。
どうして自分は、生きているのだろう。
駄目だ。
俺は、ここにいちゃ、駄目だ。
だって俺は罪人で。
偽者で。
人、じゃなくて。
だから消えなくちゃいけない。ここに止どまれば、皆も安心して、行けない。
ルークの音素が、不安定に揺れる。それに連動するように、横たわった体も揺らぎ、その輪
郭を崩していく。
ホロホロと、剥がれていく。
ルークという存在が、剥がれていく。
その時だった。
「…ご主人様!」
突然、ミュウの叫びが聞こえた。
ぼんやりとした視線をミュウに向けると、いつの間にか起きていたミュウが、消えゆくルー
クの体と音素を交互に見ていた。
「…ご主人様!駄目ですの!そのままじゃ、ご主人様、消えてしまいますの!」
ミュウが慌ててルークの体に駆け寄るが、その寸前でルークの体は崩れさり、たゆたってい
た音素と混じってしまった。
何もない布団に突っ込んだミュウだが、直ぐに起き上がると、今はもう部屋中に溢れた音素
を見上げた。
「嫌ですの!ミュウはこんなの嫌ですの!」
ボロボロと涙を零しながら、ミュウはルークをじっと見つめる。
ルークだけを、見ている。
剥がれてゆく意識の中で、どうしてこいつはは、こうなんだろうと思った。
最初からずっと、側にいて。
酷い事もたくさんしてきたのに。
なのに。
『…どうして?』
「……ご主人様?」
『どうして、側にいるんだ?皆、俺から離れたのに。それが当然なのに』
ルークの言葉にミュウは驚いた表情を見せるが、プルプルと勢い良く頭を振ると、大きく声
を出した。
一つ一つ、想いを込めて。
「ミュウは、ご主人様から離れませんの!」
届くように。
「ご主人様が嫌だと言っても、ずっと側にいますの!」
ルークに、届くように。
「…ご主人様。ミュウはご主人様が大好きなんですの。だから、ミュウがご主人様の側にい
るのは、ミュウのわがままなんですの。それだけなんですの」
溢れる涙をそのままにして、ミュウはルークに微笑んだ。
それはとても純粋な笑みだった。
何の迷いもない、真っ直ぐな想い。
それは剥がれかけたルークに、強く強く刻みつけるもので。
『……っ!』
揺れる。
揺れる。
音素が、揺れる。
「ご主人様!?」
部屋中に満たされルークの音素が、歓喜に揺れている。
それはルークの感情のままに光輝き、鈴のような優しい音色を奏でていく。
その輝きを見て、ミュウはルークの宝石を思い出した。
そうだ。これはルークの心の輝きなのだ。
以前から持っていたルークの宝石。キラキラと光輝き、ミュウを魅了した心の色。
ミュウは嬉しくて、切なくて、いろんな気持ちが混ざって、またボロボロと泣き出す。
側にいる。
ずっと、側にいる。
それがミュウの望み。
その想いに反応するように、ソーサラーリングが優しく輝き始めた。
音素の輝きとソーサラーリングの輝きが呼応し、混じり合い、暖かな光を生み出す。
そして。
ルークが目を開けると、どこまでも広がる青空が飛び込んできた。
頬に触れる風は優しく、自分が転がっている大地には白い花が咲き乱れている。
ああ。ここは始まりの場所だ。
自分にとっての、全ての始まり。
ルークはじわりと滲む視界のまま、青空をじっと見つめる。
ミュウを通して見る世界は、こんなにも綺麗なものなんだな。
ルークは、その小さくなった手を空に差し出した。
これはルークの体。
ミュウという核から構成された、ルークの新しい体。
魂の年齢に合わせたからだろうか、その外見はとても幼くなってしまったが、それでも充分
すぎるぐらいだ。
ルークは空いていたもう一つの手も、空に差し出す。そこには、光輝くソーサラーリングが
はめられていた。そのリングに刻まれた新しい音素を見て、目を細める。
始めよう。
ここから、また始めよう。
自分に何ができるかはわからない。けれど、どんな小さな事だって構わない。
守りたい。
この世界を、守りたい。
それで自分の犯した罪が、償われる訳ではないとは理解している。
それでも。
「…もう何もできない自分は、嫌だ」
ルークは零れる涙を両腕で拭いとると、勢いよく立ち上がった。風が、空色になった髪を扇
ぐ。太陽の光に反射したそれは、まるで獅子のたてがみのようだった。
「まずはセントビナーを目指そう。崩壊する…って、アッシュが言っていたしな。行こうぜ、
ミュウ」
そう言うと、ルークの右肩あたりに暖かい音素がふわりと現れた。
『はいですの。どこまでも着いて行きますの』
その言葉にルークは優しく微笑んだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

話が終わると、部屋は静寂に包まれた。
かいつまんで話した内容だったが、アッシュは今迄の出来事を理解したらしく、ただルーク
とミュウを見つめている。
だから、ルークは待つ事にした。
アッシュがどんな反応をするのか。
おかしなものだ。あれだけ憎まれ、自分も敵対心しか持っていなかったのに、今は誰よりも
近い距離にいるような気がする。これはやはり、自分を見つけてくれたからだろうか。
(まあ、アッシュがどう思ってるかはわかんねぇけど)
「…それで、貴様はこれからどうする気だ?」
「え?」
突然声をかけられて、ルークは何を言われたのかわからなかった。
「セントビナーは崩壊した。この後、貴様はどう動く気なんだ」
「あ、ああ。う〜んと、まだそこまでは考えてない…」
何しろ、自分の正体を皆にバレないように、あの場から逃げ出す事しか考えてなかったのだ。
しかも今はダアトにいるし。
「…どうしようか」
そんな途方に暮れたルークの姿を見て、アッシュは重い溜め息を吐いた。それからおもむろ
にベッドの上に転がっていたオレンジを掴むと、そのままルークの頭に投げつけた。
「痛っ」
『ご主人様!?』
まともに顔面に当たったルークが顔を押さえている間に、アッシュはさっさと部屋から出て
行こうとする。
「アッシュ!いきなり何するんだよ!」
「言い忘れていたが、今ダアトには導師が帰ってきている」
「え?」
「俺は今から導師に会ってくる。貴様はその間、それでも食って力を戻しておけ」
「…アッシュ」
「ふん。今は屑の力でも足りないぐらいだからな。せいぜい利用させてもらうさ」
そう言うと、アッシュは扉の向こうへと消えてしまう。
残されたルークとミュウは、呆然とその扉を見つめる事しか出来なかった。
だが、やがてミュウが嬉しそうに笑う。
『アッシュさん、ご主人様と一緒に行ってくれるみたいですの』
「そ…う、なのかな?」
ルークはぶつけられたオレンジを両手で掴み、コロコロと掌で転がす。
『そうですの。アッシュさんは優しいですの。だってミュウを助けてくれましたの』
自信満々で言うミュウの姿に、ルークの表情が緩む。
「…そっか」
手に持ったオレンジを口許まで運び、ルークはえへへー、と笑った。
子供のような、無邪気な笑みだった。