その体に不釣合いな大きさの翼を羽ばたかせ、カルマは両腕でしっかりと抱きしめたニーナ の温もりに、ホッと安堵の息を吐く。気を失ってはいたが、あの高さから落ちたのだから無 理もないだろう。
「間に合って良かった…」
この少女を守る事が出来て、本当に良かった。 けれど、このまま空を飛んでいても仕方がない。早く何処か安全な所に降りなければ、酷使 しすぎた自分の体も保たないだろう。
「…ここからなら、ユリアシティまで飛べるか」
アルビオールに戻る事は出来なかった。限界まで力を使ってしまい、この体を維持する事が かなり難しくなっているのだ。皆の前で、本当の自分を見せるわけにはいかない。 そうなってしまえば、きっと彼等は。 カルマはふるりと頭を振り、この魔界で唯一光を放つ事を許された監視者の都市、ユリアシ ティがある方向に視線を向けた。
「…外殻大地に戻るまで保ってくれよ」
そう呟き、その焔の羽を力強く羽ばたかせると、カルマはユリアシティ目指して飛び出した。
上空から小さな羽音が聞こえた事に疑問を感じ、テオドーロは閉じていた目をゆっくりと開 いた。ユリアシティに繋がる通路の途中に設置された、小さな広場。そこで、やがて来るだ ろうティア達を待っていたのだが、どうやらそれよりも早く、見知らぬ客人が辿り着いたよ うだ。 開いた目に飛び込んできたのは、眩しいぐらいに輝く焔の羽。それから、この魔界では見る 事のない青空の色。 羽に隠されて、その所有者の姿は見えないが、この人物が普通の人間ではない事は理解して いた。この人物から発せられる音素は、とても稀有なものだったからだ。 やがて焔の羽が大きく揺れると、その羽は音素の粒子となって消えていった。
「…これは?」
そこから現れたのは、少女を抱えた子供だった事に、テオドーロは驚いた。子供は浅い呼吸 を繰り返し、かなり疲労しているようだ。
「…大丈夫か?いったい何があったのだ?」 「…俺は平気…です。それより、この子を…ニーナをお願いします」
そう言って子供は腕に抱えた少女を、そっとテオドーロに差し出す。
「俺は…カルマと言います。この子はセントビナーの住民で、先程の崩落に巻き込まれてし まったんです」
ようやく呼吸が整ったカルマは、テオドーロに自分達がここにいる理由を説明し始めた。小 さな子供の語る言葉にテオドーロは眉を寄せるが、預言が覆され、実際にセントビナーの崩 落を目にした今、カルマの言葉を否定する事も出来なかった。
「…話はわかった。その少女は、こちらで保護すると約束しよう。それでお前はこれからど うするつもりだ?」 「俺は、皆が来る前に外殻大地に戻らなければいけません。ですから、貴方に通路の使用許 可をいただきたい」 「…何故私に問う?」 「貴方が、このユリアシティの代表だからです。…テオドーロさん」
カルマがその名前を呼ぶとテオドーロは、ほぅ…、と感嘆の息を吐く。まだ名乗ってもいな い自分の名前と地位を、この子供は知っていたのか。はたしてそれは、ティアから聞いてい たのか、それとも。
「私を知っているのなら、話は早い。なら、ユリアロードがどういう存在かも理解している のだな?」 「はい。これが通行証になるかわかりませんが、貴方ならこれが何なのか理解できると思い ます」
そう言ってカルマは左袖をずらし、その腕に付けた金のリングをテオドーロに見せた。 一見、何の特徴もないリングに見える。しかしテオドーロは、そのリングに見覚えがあった。 そう、あのレプリカの側にいた聖獣チーグルが身につけていた、ユリアとの契約の証。
「お前…いや君は、もしかして…」
まさか、そんな事が起き得るのだろうか。しかし、目の前の子供は、その事実をこうしてテ オドーロに見せつけているしている。 そして何より、このリングに刻まれた音素の羅列。表面だけではなく、その奥深くに刻まれ た音素。それはまさしくローレライと同じもの。最初に、カルマから感じた稀有な音素の正 体だった。
「…そうか。そういう事だったのか」
ならば、あの時に発生した不可思議な音素は、この為のものだったのか。 全てを理解したテオドーロは、憐憫の表情を見せて呟いた。 何という事だろう。この子供は、何という選択を選んだのだろうと。
「…よかろう。君は、ユリアロードを渡る資格が充分にある」 「ありがとうございます」
テオドーロの言葉に微笑むと、カルマはまだ眠ったままのニーナに視線を落とした。その手 には、あの落下の途中で捕まえたのだろう、鮮やかな林檎があった。カルマがその林檎に触 れると、しっかりと掴んでいたニーナの手から力が抜け、ころん…とカルマの手に林檎が転 がってきた。その林檎に唇を寄せ、一口囓る。口の中に、爽やかな味が広がり、初めてエン ゲーブで食べた林檎を思い出した。まあ、あの時の自分は、そこまで味わっていたとは思え ないのだが。それでも外へ出て、初めて美味しいと感じた食べ物である事は確かだった。 懐かしい記憶。つい最近の出来事なのに、遠い昔の出来事のようだった。
「…ありがとうニーナ」
セントビナーに辿り着いた時から、まるで姉のように自分の世話をしてくれた、心優しい少 女。出会った時に、何気無く言った言葉を、この少女は覚えていてくれたのだ。
「テオドーロさん。ニーナが目覚めたら、伝えて貰えますか?林檎、ありがとう…って」 「…わかった。必ず伝えよう」
その言葉に微笑むと、カルマはゆっくりと立ち上がった。そしてテオドーロに頭を下げると、 ユリアロードに向かって歩き始めた。 遠くから、爆音が聞こえてくる。きっとアルビオールが追いついて来たのだろう。
「怨んではいないのか?」
突然かけられた声に、カルマの足が止まる。
「君は、我々を…人を怨んではいないのか?」
振り返ると、テオドーロは上空に見えるアルビオールを、じっと見つめていた。カルマから は、その後姿しか見えず、どんな表情をしているのか知る事はできない。
「…怨んでいない。と言ったら、多分嘘になります。でも、アクゼリュスを滅ぼしたのは確 かに俺で。そして、皆が俺を見捨てたのは…当然の事だったんだ」 「…ヴァンに利用されただけだ、と言われてもか?」 「それでも、俺が殺した事に変わりはない」
カルマは自分の掌を見つめると、ギュッと強く握りしめる。
「…今の俺に、何が出来るのかわかりません。けれど、俺を必要だって言ってくれた奴がい たから。ずっと側にいるって、馬鹿な事ばかり言うから」
握りしめた手を、そっと口許に持っていく。その腕に光るのは、契約の証。
「だから俺は、ここにいるんだ」
あの時、自分は決めたのだ。 いつか消える、その時まで。
「自分の犯した罪に、逃げないで向き合うって決めたんだ」
それは、迷いの無い言葉だった。 言葉には力が宿ると言う。カルマの言葉は真っ直ぐにテオドーロに届き、それこそが一つの 音素であるかのように、優しく響いていく。
「…そうか。ならば私も腹を括ろう」 「え?」 「いや、何でもない。引き止めてすまなかったな。ティア達には、うまく誤魔化して足止め でもしておこう。…また何か困った事があれば、いつでも来なさい。我々は、君の力になろ う」 「…ありがとうございます!」
そう言うとカルマは駆け出し、ユリアロードに向かって行った。残されたテオドーロは、背 を向けたまま、その小さな子供の行く末を想う。 世界は預言から外れた。この先は誰にも、ユリアにも知らない未来が待ち受けているだろう。 それは監視者として生きてきた自分には、想像もつかない世界だ。 けれど。
「世界に抗う小さき者。君が望む未来を、私も見てみたいよ…」
着陸したアルビオールから、こちらに向かって走って来るティア達の姿が見える。 さて、どうやって誤魔化そうか。 そんな事を考えながら、いつか来るであろう未来を想い、テオドーロは小さく微笑んだ。
ユリアロードを抜けると、突然眩しい陽の光に満ち溢れた場所に出てきた。その眩しさに目 が慣れず、カルマは何度も瞬きを繰り返す。
『大丈夫ですの?』
ふわり、と触れてくる気配にカルマは苦笑する。本当にこいつは心配性だ。
「平気…って、言いたい所だけどな。やっぱり力を使いすぎたみたいだ。…体を保っていら れねぇや」
そう言ったと同時に、まるでノイズが走ったかのように、一瞬だけではあるがカルマの体が 揺れた。
『ご主人様、眠っていてくださいの。ここならたくさん音素があるから、今のうちに休んで いた方がいいですの』 「…けど、こんな森の中でお前一人にさせるなんて」 『平気ですの!ここの音素は皆優しいですの。皆にお願いして、ちゃーんと守ってもらいま すの』
えへん、と宣言したその姿を見て、カルマは思わず笑いが込み上げてしまった。言っている 事は情けないのに、何でそんなに誇らしげなんだか。
「…わかった。じゃあ、後は頼むな。でも街に着いたら、ちゃんと起こせよ」 『はいですの。おやすみなさいですの、ご主人様』 「ああ。おやすみ…ミュウ」
そう呟いて瞳を閉じると、カルマの体が音素に包まれ、淡く光だした。その光はだんだんと 輝きを増し、カルマの体を完全に覆い隠してしまう。 しかし次の瞬間、光は弾け、その粒子は光の中央にいた者が持つ、金色のリングへと吸い込 まれていった。 しん…と静まりかえった森の中を、さわさわと風が吹く。その風を受けて、袋状の青い耳が ピクピクと揺れた。 お腹に回したリングを撫でて、小さな青い魔物の仔は、その紫水晶の瞳を空に向ける。 魔物の仔。 そう。そこにいたのはカルマではない。 確かに先程までカルマがいた場所には、聖獣と呼ばれるチーグルがちょこんと立っていた。
「お願いがあるですのー。皆の音素を、ご主人様に少しわけて欲しいですのー」
子供特有の高い声でそう言うと、また風がさわさわと吹いた。すると、その風に煽られたか のように、森のあちこちから音素の粒子が溢れ出し、ゆっくりとリングに集まりだした。そ してそのまま、まるで大地に水が吸い込むように、音素がリングに浸透していく。
「ありがとうですの!」
良い子の手本のようにお礼を言うと、チーグルはぺこりと頭を下げた。そしてお腹のリング を嬉しそうに撫でる。 皆から、たくさんの音素をわけてもらえた。これを何回か繰り返したら、力が回復するのも 早いだろう。
「ゆっくり休んでくださいの、ご主人様」
それまで自分がちゃんと守ってみせるから。 絶対に守るから。 聖獣の名に相応しいチーグルのその純粋な想いは、その森に溢れる音素を歓喜に震えさせる。 音素の粒子がまた森に溢れ、楽しそうににチーグルの回りを流れていく。その光の踊りに、 チーグルも楽しそうに笑った。 しかし。
「みゅ!?」
突然、音素は散開し、一瞬にして光は消え失せてしまった。 耳をピクピクと動かして、チーグルは森の奥を、じっと見つめた。 森の奥から、別の音素が近付いてくる。その音素に、皆が驚いてしまったのだ。 その音素はとても力強くて、とても稀有なもの。 ああ、そうだ。自分は知っている。この音素を知っている。 とてもとても大切な人と、全く同じで、全く違う音素を持つ人。
「…何故、お前がここにいる」
顔も声も体も全く同じで、でもやはり全部が違う人。 深い深い、紅の色を持つ人。
「……アッシュさん」
静まりかえった森の中で、一人と一匹の声だけが響いていく。