高くそびえるソイルの樹の前に、カルマは一人立っていた。 ティアが言っていたように、セントビナーはゆっくりとした速度で降下しているようだ。しかし、いつアクゼ リュスのように崩落するかわからない。それだけは、何としても避けなければ。 カルマはソイルの樹に額を押しつけて、そっと目を閉じる。 まだ、体の疲労は取れていない。今の状態で力を使えば、かなりの負担を強いられるだろう。けれど、ティア 達が戻ってくるまで、残された人達を守るには、この方法しかなかった。
「…使える時に使わないなんて、意味ないしな」
自分の体に限界がきたら、『彼』に迷惑がかかるとは理解している。それでも、目の前の出来事から、目を反ら す事は出来なかった。
『…大丈夫ですの』
ふわり、と。 カルマを包み込むような、暖かい音素を感じた。
『何があっても、僕がご主人様を守りますの』 「ああ…、頼りにしているぜ」
我ながら、現金だと思う。『彼』が側にいてくれるだけで、どんな事も出来そうな気がするのだから。 カルマは優しく微笑むと、意識を集中してソイルの樹と音素を触れ合わせる。 二千年前から存在していたと言われているソイルの樹は、第二音素の結晶でもあった。 その葉は大気に音素を満たし、その根はセントビナー全体を張り巡らせ、この大地を支えている。 そして今。 カルマの音素と混ざりあったソイルの樹は、まるでその葉で、枝で、根で、セントビナー全てを包み込むよう に、音素を放出していく。 やがて。 それまで頻繁に起きていた地割れがピタリと止まり、激しい揺れも、柔らかなものへと変化していった。
「どうやら間に合ったようですね」
シェリダンから、アルビオールで駆けつけたジェイド達が見たものは、まだゆっくりと降下しているセントビ ナーの姿だった。
「ええ。まだディバイディングラインも越えていないみたい」 「よし、早く救出に向かおう。ノエル、街の広場に着陸してくれないか?」 「わかりました。皆さん、しっかり掴まっていてくださいね」
降下しているセントビナーの速度に合わせて 、アルビオールが着陸体勢に入る。
「でも本当に、ゆっくりと降下していくんだね。もっとこう、ズガガガーンって落ちるのかと思っていた」 「…そうね。話に聞いていたよりも、かなり速度が遅いみたい」
それに、近づいて気づいた事だが、一緒に崩落している他の大地には、かなりの亀裂や崩壊が見られるのに、 セントビナーだけは、まるでそこだけ守られているかのように存在している。おかげでアルビオールは、崩落 しているとは思えないぐらい安定したセントビナーの中央広場に、無事に着陸する事が出来た。 その鈍色に輝く飛行機関に驚いたのだろう。残されていた人々が中央広場に集まり、遠巻きでアルビオールを 見つめている。
「皆さん、早くこのアルビオールに乗ってください!ディバイディングラインを越える前に、ここを脱出しま す!」 「おお、ジェイド!」
老マクガヴァンがその姿を認めて、その名を呼ぶ。脱出、という言葉を聞いて、人々は歓喜に湧いた。
「狭いけれど、皆さんは荷物室へ」 「慌てないでくださいまし。大丈夫、落ち着いて」 「…お姉ちゃん!」
ティア達が人々を誘導していると、中から聞いた事のある声がした。その声のした方向に視線を向けると、何 故か手に幾つもの林檎を抱えたニーナがいた。
「まあニーナ。貴女、まだ避難していなかったの?」 「うん。あの変な音機関がきた時に、お父さんが足を捻挫しちゃったんだ」 「…そう。大変だったのね」 「平気だよ。だって、お姉ちゃん達が守ってくれたんだから。…それに、カルマもずっと守ってくれているか ら」 「カルマが…?」
そういえば、この場にはあの空色の髪をもった子供の姿が見えない。あの子供は、何処で何をしているのだろ うか。
「でも、お姉ちゃん達が来たんだから、カルマに言わなきゃ。もう大丈夫だよって。…もう、休んでいいんだ よって。それで、この林檎を食べてもらうんだから」
そう言って林檎を見つめるニーナの瞳から、はらはらと大粒の涙が零れだした。
「…お願い、カルマを助けて。私達、カルマに守られてばかりなの…。何もしてあげられないの…」
林檎を、ギュッと握りしめたまま、ニーナはティア達に訴える。
「カルマ、ずっとソイルの樹と一緒にいるの。ずっと、休まないで、皆を守ってるの。このままだと、カルマ 死んじゃうよ!お願い、助けて!」
それは不思議な光景だった。 人々の誘導をティア達にまかせ、カルマがいるというソイルの樹にやってきたガイとジェイドが見たものは、 まさしく不思議としか言い様のない光景だった。 ソイルの樹に額を押しつけているカルマが、淡く発光している。いや、カルマだけではない。ソイルの樹も、 その周囲の大気も、全てが光輝き、その光はゆっくりとゆっくりと、セントビナーを包み込むように広がって いる。
「…これは音素の光ですね。信じられないですが、どうやらこの音素が、セントビナーを守っていたのでしょ う」 「どういう事だ?」 「言っていたでしょう?カルマは、この世界全ての音素の力を借りる事ができると。カルマは、ソイルの樹の 音素を借りて、このセントビナーの大地を崩落に耐えられるよう支えていたのですよ」
それは、思いもつかない事実だった。 おそらく、この世界に生きる者全てが、この事実を語っても信用しないだろう。たった一人の人間が、大地を 支えるなんて。 しかし、とジェイドは一人思う。 ただ一人、いやもしかしたら二人なのかもしれないが、同じような力を持った人間がいる。 第七音素と同じ振動数を持つ、聖なる焔。そして劣化しているとはいえ、同じ力を持つレプリカドール。 ジェイドの疑問に突き刺さったままの棘は、じわじわと傷口を広げていった。
「…とりあえず、彼をアルビオールに連れて行きましょう。いくら音素を使って大地を支えていても、ディバ イディングラインを越えてしまえば、どうしようもありません」 「…ああ、そうだな。おい、カルマ」
ジェイドに促され、ガイはカルマの側へと近づいて行く。 しかしカルマはガイに気づいた様子もなく、瞳を閉じたままソイルの樹と力を合わせている。
「カルマ、もういいんだ。街の皆はアルビオールに避難した。もう、支え無くていい。後はお前だけなんだ」 「…駄目だ」 「え?」 「今迄、無理して崩落を押さえていたんだ。俺がここから離れたら、その反動が一気にきてしまう」
ゆっくりと目を開くと、カルマは振り返ってガイとジェイドを見た。
「だから、二人も早くここから離れた方がいい。俺は、皆がちゃんと脱出するまでここで支えているから」 「…何だよ、それ」
今、何て言ってんだ? この子供は、いったい何を。
「…貴方を見捨てて、逃げろと言う事ですか?」
その疑問にジェイドが答える。それはガイの思考回路を吹き飛ばすには、充分な内容だった。
「っっ!冗談じゃないっ!そんな事ができるわけないだろ!!」 「そうですね。子供を犠牲にして生き残るのは、正直気分が悪いです。…ガイ」 「おうっ」 「え?」
ヒョイ、と。 まるで荷物か何かのように、カルマはあっさりとガイに抱えられてしまった。その瞬間、今迄周囲を満たして いた音素の光が、一斉にして消え去ってしまう。
「さぁ、サクサクと戻りますよ。ここも、そう長くは持ちません」 「カルマ、しっかり掴まっていろよ」
そう言うと、二人はカルマを抱えたまま、アルビオール目指して走り出した。 地響が鳴り出す。何処か遠い所から、建物の崩れる音がした。降下していく速度が、見た目にも早くなってい るのがわかる。
「馬鹿!俺を降ろせってば!見捨てて行けばいいだろ!?それで被害が最小に食い止められたら、それでいいじ ゃないか!」 「確かに、ディストの時は貴方を見捨てようとしました。それは否定しません。けれど今は違います。貴方を 見捨てても、連れ去っても、結果は同じなのですから」 「…?どういう…」 「つまり、皆助かるって事だよ」
ガイの言葉を聞いて、カルマは眩暈を感じる。 そうだ。そうだった。この人達は、そういう人種であった。 酷い事を言っても、本質は優しいジェイド。 明るくて頼りになる、兄のようなガイ。 ああ、そうだろう。この二人なら、こんな状況に立っている子供を助けるだろう。
(…けれど、俺なら?)
本当の俺を、この人達は同じように助けてくれるのだろうか。また、あの時のように…。 そこまで考えて、カルマはふるりと頭を振った。 止めよう。今はそんな場合じゃない。この崩落していく大地から、早く皆を避難させないと。
「ガイ!大佐!早くこっちへ!」
中央広場に入ると、アルビオールが既に離陸準備に入っていた。ハッチを大きく開けて、その前に立ったティ アが二人を急かす。
「ティア!ノエルに発進させるように言ってくれ!」 「わかったわ!」
ガイの言葉に応えて、ティアはアルビオールの中へと駆けて行く。しばらくすると、その鈍色の機体はゆっく りと動き出して、こちらに向かって来る。
「…おい、どうするんだよ!?」 「決まってるでしょ?」 「飛び乗るんだ!」
そんな無茶な。 カルマがそう突っ込む前に、ガイとジェイドは、近づいて来たアルビオールのハッチを掴むと、力強く足を踏 込み、機体の中へと飛び込んだ。勢いが良過ぎたのだろう、その反動で床に二三転してしまう。
「いたたたた…。おい、カルマ無事か?」 「頭打った…」
転がった時に強打したのだろう、カルマはまだガイに抱えられたまま、後頭部を押さえている。
「…カルマ!無事なの!?」
その時、通路へと繋がる扉が開かれ、そこからニーナが慌てて入ってきた。
「…ニーナ!」 「カルマ…、良かった。無事だったんだね。もう、心配させないでよ。カルマはいつも無茶ばかりするんだか ら」
涙目になりながら、ニーナはガイからカルマを奪い、ギュッと抱きしめる。突然の抱擁に、カルマは少し驚い たが、おそるおそるその腕を少女の背中へと回す。
「ごめん…。セントビナーに来てから、ニーナには迷惑ばかりかけているな」 「…そう思ってるなら、あんまり無茶しないで」 「うん…、ごめん」
苦笑しながら、カルマは心の中で、それは無理だなと呟く。どんな無茶な事でも、自分はやらなければいけな い。 この命が尽きるまで、自分の犯した罪を償わなければ。
「二人とも大丈夫ですの?」 「さっすが大佐とガイだね。あんな無茶な乗り方をして無傷なんだから」
賑やかな声と共に、ナタリア、アニス、続いてティアと部屋に入ってきた。
「ハッチが開いてるままだと危ないわよ」
ティアが注意を促す。言われて見れば、確かにその扉は大きく開かれたままだった。そこからは音素の守りを 無くしたセントビナーの大地が、速度を上げて降下していくのが見える。
「…そうだな。早いとこ閉めないとな」
そう言うとガイは立ち上がって、開いたままのハッチへと歩いて行く。
「あ、そうだカルマ。お腹空いてない?林檎あるから食べて」
ニーナはスカートの中に入れていた林檎を一つ、はい、とカルマに差し出した。
「エンゲーブの林檎だよ。カルマ、これ好きだって言っていたから」 「…ありがとう」
もしかして、自分に渡す為にずっと持っていてくれたのだろうか。その気持ちが嬉しくて、カルマはニーナに 優しく微笑んだ。 そんな表情を見て、その場にいた者達は「なんだ、そんな顔も出来るんだ」と、少しばかり驚く。 その時、突然アルビオールが大きく揺らぎ始めた。 それは立つ事さえままならない状態で、皆は床に座り込み、側にある物を掴んで耐えていた。
「何!?何なの急に!!」 「きっと、ディバイディングラインを越えようとしているんだわ」
激しい大気の壁が、アルビオールを襲う。あまりの衝撃に、誰もが自分の身を守るのに必死だった。 その時。
「…あ」
トン、と。 固い何かが床に落ちる音がした。
「林檎が」
赤い林檎が、トン、トン、と転がって行く。 思わず、それを追いかけようとニーナが体を少し浮かせた瞬間、横殴りの重圧がアルビオールを襲った。
「…え?」
それは。 まるで、世界中の音が止まってしまったかのように見えた。 開けられたままのハッチから。 ニーナの体が。
「………!!」
魔界の空へと投げ出されてしまった。
―助ケテ。
「…ニーナ!!」
ハッチの側にいたガイが、慌てて手を伸ばしたが、その手は空を掴むばかりだった。
―助ケテ。
「ニーナ!ニーナ!!」 「私、ノエルに言ってくる!」
ニーナの小さな体が、魔界の海へと落ちていく。 このままでは、あの時と同じだ。
―助ケテ。
そう。 あの、アクゼリュスの時と。
―助ケテ、誰カ。
次の瞬間。 魔界の空に、小さな青い影が舞った。
「…カルマ!!」 「いやああああ!」
カルマは、勢いをつけてアルビオールから飛び出し、そのままニーナと同じように落下していく。 そして、懸命にその手を伸ばすが、距離が離れすぎていて、届く事ができない。
「…嫌だ」
嫌だ。嫌だ。
「絶対に助けてみせる」
今度は。 今度こそは。 もう誰も、魔界の海へと沈めさせたりしない。
『ご主人様!』
その声が耳に届いた時。 カルマの体は音素の光に包まれ。 そして。
「…何が起きているの?」 アルビオールに残された者達が見たものは。 光も射さない魔界の空に、眩しいほどの輝きを放つ、焔の羽だった。