ゴツゴツとした固い幹に耳を当てると、遠くの方から水が流れているような音が聞こえる。それは、樹が大地 から水を吸収し、枝の先、葉の一枚一枚に水分を送っているからだ、と街の誰かが言っていた。 ならばこれは、この樹の命の音なのだろう。 二千年もの樹齢を持つと言われているこの樹の鼓動は、今も力強く脈打っていた。 それがどれほど凄い事なのか、何となくではあるがわかりはじめてきた自分に、少し照れる。
「…絶対にセントビナーの人達を死なせはしないから」
目を閉じて、まるで誓いのように呟く。そしてその言葉に応えるように、樹は風を受けて枝を揺らし、葉が音 を奏でる。 樹から耳を離し、それを眩しそうに見つめた子供は、ふいに視線を反らした。
「ん?…ああ。やっと来たんだ」
子供には似合わない、何かを耐えたような笑顔で街の中を見下ろした。視線の先には、老マクガヴァンの屋敷 がある。
「なんだよ。平気だって。……心配してくれて、ありがとう…な」
子供は先程とは違う優しい笑みを浮かべると、自分の右肩にそっと触れた。まるでそこに大切な物が存在して いるかのように優しく撫でると、左手に付けられた金のリングが、光を受けて輝く。 老マクガヴァンの屋敷から、何人かが離れてこちらに向かって来るのが見えた。きっと、自分の事を知らされ たのだろう。彼等はまっすぐに、ソイルの樹を目指している。 子供は目を閉じて、ゆっくりと深呼吸を始めた。それから、何かを決意したように頷くと、身につけていた大 きめの黒いマントを巻き直して、口許まで覆い隠す。 暫くすると、下から子供を呼ぶ声が聞こえた。それが合図かのように、子供はフワリと体を動かして。 青空色の髪を揺らしながら、静かに地上目指して落下していく。
「おじさん達、何してんの?」
無邪気に聞いてくる少女の声に、一瞬時が凍った。そして皆の視線が、ゆっくりとジェイドの元へと集中する。 何しろ35歳。若く見えても35歳。 おもわず見てしまうのも仕方ないだろう。 しかし、注目の的である当のジェイドは、相変わらずの笑みを浮かべていた。
「呼ばれていますよ、ガイ」 「って、俺かよ!あきらかにアンタの事だろ!!!」 「おやおや、年寄りは怒りっぽくて嫌ですねぇ。カルシウムが足りないんじゃないですか?」 「…あんたなぁ」
突然始まったよくわからない漫才に、声をかけてしまった少女は途方にくれてしまった。
「…彼等の事は気にしなくていいわよ」
ティアが呆れたように言うと、少女と視線が合うように膝を折って微笑む。
「私はティア。あなたは?」 「ニーナ!」
ティアにつられて、ニーナと名乗った少女も元気で応えた。左右で結んだおさげが、楽しそうに揺れる。
「ねえニーナ。私達、カルマって言う子を探しているんだけど、どこにいるか知っている?」 「え?お姉ちゃん達、カルマを探してるの?だったらソイルの樹のてっぺんにいるよ」
そう言ってニーナは、空を指さした。その先には、このセントビナーに建てられたどの建物よりも高い位置に ある樹の頂上があった。
「げぇ〜!むちゃくちゃ高いじゃん!本当にあんな所にいるの?」 「いるよ。ここに来てから、カルマはいっつもあそこにいるから」
そう言ってニーナは、樹の真下まで歩き出し、空に向かって声をあげた。
「カールーマー!お客さんだよー!降りてきてー!」
まるで遊びに誘うかのような呼び方だった。はたして、こんな呼び方で頂上付近にいるであろう人物に聞こえ るのだろうか。不安そうに、皆が空を仰いだ。 その時。 雲ひとつない青空の中に、黒い小さな人影が見えた。それは、まっすぐに自分達めがけて地上に落下してくる。 このままでは地面に激突してしまう。誰もがそう思った時、その人物の落下速度はゆっくりとなり、くるりと 一回転すると、無事に足元から着地した。全身を纏う黒いマントと、青空色をした長い髪がフワリと揺れる。
「カルマ」
ニーナが声をあげた。 その声に反応するように向けた瞳は、紫水晶のように澄んだ色。 子供、だった。 老マクガヴァンの言った通りに子供だったが、まさかこれほど小さな子供とは思わなかった。 今、彼等の目の前にいる子供はどう見ても十に満たない。背丈だってニーナよりも小さかった。 しかし何よりも驚いたのは、あの高さから飛び降りて無事な事だろう。ガイがタルタロスから華麗に参上した のとは訳が違うのだ。
「ニーナ、何してるんだ?もう避難が始まっているだろ」 「何よそれ。カルマにお客さんがきたから、呼んだだけでしょ。それにカルマも避難準備しないといけないん だからね」 「…俺には何も持って行く物はないよ」
そう言って苦笑すると、カルマはまだ動揺を隠しきれないジェイド達に視線を向けた。
「あの人達が、カルマを探していたんだよ」 「そうか…、ありがとうニーナ。ここはもういいから、早く避難した方がいいよ」 「わかってるわよ、もう。年下のくせに生意気なんだから」
じゃあね、お姉ちゃん達。と声をかけて、ニーナは避難準備に急いでいる人達の中へと走っていく。 それを見送ると、ジェイド達の視線はカルマに集中した。
「…貴方がカルマですか?」 「ああ、そうだけど…。俺に何か用?」 「ええ。マクガヴァン元師から貴方の事を聞いて、少し興味を持ってしまいましてね。実際会ってみて、ます ます興味を持ちました」
そう言ってジェイドはにっこりと微笑む。 相手は確かに子供だ。 しかし、普通の子供では無い事は、先程の出来事から見ても明らかだった。
「マクガヴァンさんから何を聞いたのか知らないけど、あんた達が興味持つような物なんか何もないよ」 「そうですか?今の見事な着地も、大変興味深いですよ?僅かですが音素反応がありましたが…貴方は譜術士 ですか?」
それはジェイドだから気づいたのだろう。カルマが着地する寸前に、その体が第三音素に包まれていたのだ。
「えー!大佐、だってこの子まだ子供ですよ?いくらなんでも譜術士だなんて、そんなビックリ人間大集合み たいな話ありえない〜!」 「何言っているんですかアニス。私がこの子ぐらいの歳は、そりゃもうバリバリで譜術なんか使いまくってい ましたよ?」
だってそりゃ大佐は、一人ビックリ人間大集合だもん。 そう言いたかったアニスだったが、命は惜しいので何とか堪えた。 そんな二人のやりとりを見ていたカルマは、少し嬉しそうに笑った。その表情は、覆われたマントのせいで、 誰にも気づかれる事はなかったが、何処か懐かしそうなものを見ているような笑みだった。
「…譜術とか、そういうのはわかんねーけど、音素なら見えるよ。だからさっきも、第三音素に手伝ってもら ったんだ」 「見える…、て事は貴方は第三音譜術士なのかしら?」
それなら納得がいくとティアも思った。何故なら譜術士が、自分の使用する音素が見えるのは当然の事だった からだ。一人ビックリ人間大集合であるジェイドは第七音素以外を使用できるため、カルマが使用した第三音 素が感じられたのだろう。
「違う。俺には、全ての音素が見えるんだ」
カルマは、ティアの言葉を静かに否定した。
「この世界に息づく、全ての音素が見える。感じる事ができる。それだけなんだ」 「…これは驚いた。貴方は私が想像していたよりも、かなり特殊な能力を持っているようだ」 「どういう事だジェイド?」 「人体の眼は、最大のフォンスロットでもあります」
眼鏡をそっと押さえて、ジェイドは言う。
「眼から音素を取り込む事によって、さまざまな譜術が使える事ができます。…しかし、普通の人間には多く ても、一、二種類の音素を捉えるのがせいぜいです。しかし彼は、全ての音素と言った」 「!…まさか第七音素まで…ですの?」
皆が驚愕に包まれた。 この目の前にいる子供は、ジェイドの言葉が正しければ、全ての音素を使用できるというのだ。
「そうか…、それで貴方はセントビナーが崩落するとわかったんですね」 「なんだ。その事をマクガヴァンさんから聞いたんだ。……うん。ずっと、第二音素が騒いでいたから、何と かしたいと思ったんだ。…それに、もう誰かが傷つくのは嫌だ。誰も死なせたくない」
紫水晶の瞳を悲し気に伏せて、カルマは避難を始めた街の住人達を見つめた。その表情は、幼い子供にはとて も似合わない。
「…まあ、そんな事言ってみても俺がした事って、マクガヴァンさんに、ここが危ないって知らせる事しか出 来なかったんだけどな。…偉そうな事言ってみても、大した事してないや」 「そうですか?貴方が前もって知らせてくれたおかげで、ここの避難はとても迅速に行われています。それは とても凄い事ですよ」
かけられた言葉驚いて顔を上げると、そこには優しく微笑んだイオンがいた。
「いきなり崩落が始まると言われても、信じる人は少ないでしょう。けれど、マクガヴァンさんは貴方を信じ て、住民達の避難準備を開始してくれた。…それは並大抵の説得では出来なかった事です」
その微笑みはとても暖かかった。けれど何よりも。 その、言葉が。 それが嬉しくて嬉しくて、カルマは泣きそうになる。 しかし次の瞬間。 何かに気づいたように、街の入口にするどい視線を向けると、カルマの全身は緊張に包まれた。
「どうしました?」 「…何か嫌な音素が近づいてくるみたいだ。第三音素もザワザワしている」
街の入口では、住民達の避難が進まれていた。それ以外に、おかしな所はないように見える。 しかし、カルマにはわかるのだ。 何かが来る。それも明らかな攻撃意思を持ったものが。
「…ヤバイ!!」
突然カルマが叫ぶと、その小柄な体から想像もつかない瞬発力で、真っ直ぐ入口を目指して駆け出した。
「私達も追いましょう!」
ジェイドの声に反応して、状況がまだ見えない他の仲間達も、カルマを追って走り出す。その小さな背中は既 に遠く、入口までには追いつけないだろう。
「い…いったい何事〜!?」 「わからないが…、あの子が何らかの危険を察知したんじゃないかな?」
カルマの言う事が正しければ、彼は全ての音素を感じる事ができるのだ。きっとこの周辺に存在する音素が、 彼に危険を知らせたに違いない。