静かな部屋の中で、鮮やかな朱の髪をもつ少年がベッドの上で眠っていた。そしてその側
に、一匹の青い魔物の仔が、じっと少年の顔を見つめている。悲しそうに、寂しそうに。
「…ご主人様」
ポツリと、青い魔物の仔…ミュウは、自分の主人と決めた少年、ルークを呼んだ。
「ご主人様、早く起きてくださいですの」
それは、ルークが眠り続けた時から繰り返された言葉。
あの日。
あのアクゼリュスの事件から、どれだけ経ったのだろう。この陽の光もささない魔界では、
チーグルの森で感じた時間の流れがわからない。気がつけば、この部屋の持ち主であるテ
ィアが果物を持ってきてくれた事が何回かあったので、おそらく数日は経っているのだろ
う。ミュウは、ルークの顔からテーブルの上に置かれた林檎に視線を移した。
鮮やかな色をした林檎は、おそらくエンゲーブ産だろう。チーグルの森で食べたあの林檎
は、とてもおいしかった。けれど今のミュウには、その記憶すら霞んでみえる。

 

だって、ルークが目覚めない。

 

ルークという存在に出会った時に、ミュウの世界は変化してしまったのだ。
ルークの荒々しい行動の奥底にある優しさに触れた時、ミュウはまるでキラキラと輝く宝
石を見つけたような気がした。綺麗で眩しい、でもとても暖かい。そしてその輝きはミュ
ウを照らし、今まで見てきた景色をより煌めかせた。
ミュウはそれが何だか嬉しくって、必要以上にルークにまとわりついた。そしてまるで呼
吸するかのように、ルークに言い続けた。
「大好きですの」
「ご主人様大好きですの」
「ミュウは、ご主人様が大好きですの」
そう言うと彼はいつも悪態をつくのだけれど、頬はほんのりと赤く染まっていたのをミュ
ウは知っている。そしてその度に、ルークの宝石はキラキラと輝くのだ。
嬉しい時、楽しい時、幸せな時。
無器用ではあったけれど、ルークは確かにそれらを感じとり、表現していた。そんなルー
クの感情を、ミュウはまるで宝物のように見ていた。
けれどその宝石の光も、今はすっかりと消え失せてしまっている。森を思い出す瞳は、ず
っと閉じられたままだ。
「ご主人様…」
小さい声がやけに響く。
ああ、どうしてここには誰もいないのだろう。どうして皆は。
「僕はずっと…、ずぅ〜っと側にいますの」
皆は気づかなかったのだろうか、ルークの宝石に。
キラキラとしたあの輝きに、誰も気づこうとしなかったのだろうか。
そして、あの時。
その宝石が壊れていく音を、誰も聞かなかったのだろうか。
「ご主人様。僕もチーグルの森を燃やして、皆に迷惑をかけましたですの。だから一生懸
命、皆のために頑張ろうと決めたですの」
お腹にまわしたソーサラーリングを撫でながら、ミュウは眠っているルークに話しかける。
「皆のためになるなら、死んでもいいと思いましたですの。…そんなミュウを、ご主人様
は助けてくれましたの」
あの時に触れた優しさは、罪を背負った自分にはとても眩しく見えた。
「嬉しかったですの。本当に嬉しかったですの。ご主人様が、ユリア様みたいに見えたで
すの」
あの瞬間、自分の罪はルークによって払われた。ならば今度は自分の番だ。
「ご主人様、大好きですの」
ずっと側にいる。皆がルークから離れても、自分だけは絶対に離れたりしない。
そしていつかまた。
また、あのキラキラとした輝きを見せてくれますように。
そのためなら、大好きなタタル草もネコニン草も、ルグニカ紅テング茸も絶ちます。だか
らだから、どうかお願いします。
ソーサラーリングを撫でながら、ミュウは誰ともなく祈った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

皿に盛り付けた果物を持って、ティアは静かに部屋の扉を開けた。きっと今日もミュウは
食べていないのだろう。小さな魔物の仔の後ろ姿を思い出し、ティアは溜め息を吐く。
ルークが眠りについてから、ミュウは片時も彼の側から離れなかった。主人の容態が心配
なのだろう、その賢明な姿はティアの胸に痛みを与えた。
もう止めて。
何度そう言いかけただろうか。
何度、その小さな体を捕まえて、ルークから引き離そうとしただろうか。
眠り続けるルークの側にミュウがいる。
ただそれだけの光景が、冷たい刃のようにティアの心に突き刺さるのだ。
その光景を思い出し、寒気に体を震わせると、二階へと続く階段を前にしてティアの足は
止まってしまった。この階段を登ればルークとミュウがいる部屋に行ける。ミュウはここ
数日、まともに食べていない。今日は新鮮な桃が手に入ったのだ。甘くてツルリとした桃
なら、ミュウも食べてくれるかもしれない。
そう、思っているのに。
(…どうして?何でこんな……)
二階に行かなければいけない。嫌、行きたくない。行けばまた、あの姿を見てしまう。
(こんなに…怖いなんてっ……!)
信じられない事に、今ティアを襲っているのは恐怖という感情だった。いや、きっと今だ
けではなかったのだろう。ここ数日感じていた痛みは、本人も気付かなかった恐怖だった
のだ。
ルークに対して、ではない。ルークは確かにアクゼリュスを崩壊させたが、彼に対しては
恐怖を感じたりしない。ただ、裏切られたという想いが心を占め、水底のような冷たい怒
りが出てくる。
(なら、私が怖がっているのは…)
その時だった。
突然、激しい第七音素の波動が二階の部屋から溢れてきた。その力の波は暴力のように流
れ、階段下にいたティアの体を叩きつける。
「クッ…!!」
あまりの衝撃に、一瞬息が詰まった。それでも軍人として鍛えられてきた体が反応し、素
早くナイフを取り出すと、ティアは気配を殺しながら静かに移動する。何が起きているの
か確認しなければ。
第七音素はいまだ溢れ続けている。まるで嵐のように吹き荒れる音素の中で、ティアは何
とか体制を維持させると、慎重に階段を登っていった。ゆっくりとゆっくりと。
そして中腹ぐらいまで登った時、第七音素の波音に混じって聞こえてくる小さな声に気付
いた。
「……で…の。…や…ですの!」
ミュウだ。ミュウの声が聞こえてくる。
ティアは慌てて残りの階段を登ろうとしたが、そこから先は第七音素の圧力が塞いでいた。
「そんなの、ミュウは嫌ですの!」
泣いているのだろうか、ミュウの声は震えていた。
だが、ミュウは誰と会話しているのだろうか。この部屋には、ミュウとルークしかいない
はず。
「…まさかルーク!?」
「ミュウはずっと側にいるって言いましたの!どんな事があっても…側に…!!」
その声が聞こえた時、ティアの思考はゼロになった。認めたくなかった現実をつきつけら
れたような。
そんな感情がティアを無防備にさせ、更に勢いを増した第七音素の波に突き飛ばされ、階
段の下へと落とされる。それはまるで、深い深い暗闇へと落ちていくように感じられて。
(ああ…そうだったんだ、私が怖かったのは…)
「絶対に離れませんの!」
その声が聞こえてきたと同時に、ティアは体に強い痛みを感じた。たいした高さではなか
ったものの、受け身もとらなかった体は、床に叩きつけられた衝撃を全て受けとめてしま
う。しかしティアは、そんな体の痛みよりも、心の痛みの方が辛かった。痛くて痛くて、
立ち上がる事もできない。
そうだ。私はミュウが怖かったんだ。
あの時、自分達が見捨てたルークの側に、ミュウだけが残っていた。ミュウだけが、ルー
クを見捨てなかった。
その姿が、自分達を責めているような気がして。
まるで、自分達が罪人のような気がして。
ティアはその感情に気づかないふりをするしかなかった。いや、きっと自分だけではない
はずだ。あの場でルークを見捨てた皆が、それに気づかないふりをしたのだ。
第七音素が揺れている。キラキラとした輝きを放ちながら、神秘的なグロッケンの音色を
奏でていた。
ティアはその輝きが、時々見せたルークの笑顔に見えて。
床に倒れたまま、瞬きもせずに第七音素を見つめていた。
私達は取り返しのつかない事をしてしまった。
泣きたい、とはこんな気持ちなのだろう。なのに軍人という身が、泣く事を良しとしない。
部屋中に溢れかえっていた第七音素が、ゆっくりと消えていく。あの輝きも音色も、最初
から何も存在してなかったかのように消えてしまった。
ただ、いつのまにか床に落ちてしまった桃だけが、消えないで残っていた。グシャリと潰
れた桃は、まるで自分の中にある醜い感情のように見えて、ティアは少し笑った。

 

 

 

 

 

 

 

その日、ユリアシティからルークとミュウの姿が消えた。
まるで、最初からそこにいなかったように。
消えてしまった。

 

 

 

 

 

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