ここに一つの薬があります。 何の変哲もない、普通のカプセル剤。 まるで血のように赤い、その薬。 もし、この薬一つで、超能力が得られるとしたら。 貴方はどうしますか。 この薬を欲しますか。 普通の人間では得る事のできないその力を。 貴方は求めますか。 例えその力を得たために、人間として生きる事ができなくなったとしても。 貴方は力を求めますか。 人を殺す事は、こんなにも簡単な事だったのだろうか。 自分が想像していたのとは、少し違うような気がする。 何か凶器を用意したり、いろいろな計画を練っていたりするものだと思っていたのだけれ ど。 案外、あっけなく人というものは殺せてしまうのだ。 私は、目の前で無様に転がっている物体に視線を送った。 無様に転がっているソレは、元が何であったかは一見してわからなかった。 しかしよく見ると、それが元は人であったという事がわかる。 まるで大きな機械か何かで捩じ切られている体。 常識では考えられない方向へと、手足が向いており、頭部にいたっては判別つかないほど 拉げていた。 そして、夥しい血の量。 例え鋭利な刃物でメッタ挿しにしたとしても、これだけの量の血液は流れないだろう。 そう。まるで雑巾のように搾り取られたかのような。 本当に、これは私がやった事なのか。 今更ながら、信じられない。 だって私は何もしていない。 何も手に触れていない。 只、私は念じただけだ。 その人に向かって、呪詛のように強い想いで。
死んでしまえ。
ただ、それだけを考えていた。 それだけを想っていた。 すると突然、頭の後ろの方で何かが弾けた感覚が起きると、その人は私の目の前で急に体 を歪ませていった。 驚愕の表情を浮かべ、私を見ている。 まるで目に見えない、巨大な万力で締め付けられているかのように、体が音をたてて捩れ ていく。 私はただ、それを見ていただけだった。 私自身、何が起きたのか理解できなかったからだ。 醜い音と呻き声だけが、部屋の中に響いている。
「……っ前……、サイ…コ…を……」
ゴボゴボと血を吐きながら、その人は私に問いただす。 サイコ? その単語を聞いて、私の脳は急激に冷めていった。 そうか。ならば私は得る事ができたのか。 普通の人間が持つ事のできない異端の力。 超能力を。 この現状こそが、ゆるぎの無い証拠だった。 私は薄く笑みを浮かべると、その人に視線を向けた。 集中し、力を込める。 その瞬間、鈍い音をたてて、その人の体は崩れていった。 その目だけは、私を見つめたまま。 まるで壊れた人形のように、床の上に倒れて行く。 いや、潰されたトマトか。 どちらでも構わない。 この人はもう死んでしまったのだ。 私が、殺したのだ。 なのに何の感情も湧かないのは何故だろう。 あるのは只、妙に冷静な自分自身だけだ。 己の手を汚さず、超能力で殺したから、実感が湧かないのだろうか。 それとも、突然の出来事だったので現実感が持てないのだろうか。 ふと、サイコを渡してくれたあの人の言葉が、私の脳裏をよぎった。 あの人は、私に何と言ったか。
『この薬は、絶大なる力と引き換えに、人間としての心を蝕んでいきます』
私は力を得た。 人間では得る事のできなかった力。 そうか、それと引き換えに。 私は、人間ではなくなってしまったのだ。 その現場を見た瞬間、バーンは吐きそうになった。 部屋の床は一面血の痕が残っており、その中心には捩れた人間の死体が転がっていた。 今まで、いろいろな事件に係わってきたが、ここまで残忍な殺人に出会ったのは初めてだ った。
「大丈夫かい?バーン」
キースが、顔色の悪いバーンに気づいて声をかけてきた。
「…うん。大丈夫…だと思う……多分」 「あまり無理しなくていいよ。ここは僕が見ておくから、君は外で待機しているといい」 「…そーいうワケにもいかないだろ?一応見ておかないと、後から困るのは俺なんだしさ。 …しかし、何でお前は平気なわけ?」 「うーん。もっと酷い死体を今まで見てきたからな。慣れたのかもね」 「…慣れるもんなのか?」 「医学生が解剖した後、平気で食事できるのと同じだよ」 「うわー。俺パス…」
他愛の無い会話を交わしているうちに、バーンの気力も幾らかは回復してきた。 気を取りなおして、もう一度現場を眺めてみる。
「被害者は、ライラ・ガーネット。最近、このアパートに越してきたみたいだ。この周辺の 住人に聞いてみたところ、顔を見ても挨拶を交わす程度だけらしく、親しく付き合っている 知人はいないみたいだね」 「んじゃ、強盗か何か?」 「警察の方々が調べてくれたみたいだけど、現金や宝石類には、手をつけてはいないみたい だ」
その言葉を聞いて、バーンは軽く溜息をついた。
「じゃあ、またどっかの馬鹿だ」 「そういう事になるのかな。まあ、詳しい事はまだわからないから、ここで決め付けてしま っても仕方がないよ。もしかしたら怨恨かもしれないしね。只言える事は、間違い無く超能 力者の仕業だって事さ」 「しかも、サイコを使った奴」 「そういう事。だから警察も、僕達に協力を要請したのさ」
サイコ。 それは、数ヶ月程前からこの国を侵食しているドラッグの名前だった。 ドラッグといっても、巷にあふれているLSDやマリファナみたいな物ではない。 その血のように赤いカプセル剤は、常用した者に、あるモノを与えてくれる。 超能力。 それを使用した者は、その力を得る事ができた。 普通の人間がけして得る事のできないその力を。 その薬は我々に与えてくれる。 だが、サイコを使った者全てがサイキッカーになるとは限らなかった。 体質によるものだろうか、強大な力を得る者もいれば、スプーン曲げ程度の能力しか持た ない者もいる。 そして覚醒も何もしないまま、死んでいく者も。 サイコは諸刃の剣だ。 人間の遺伝子に眠っているその力を、強制的に引き出すその薬は、確実に人間としての構 造を壊していく。 覚醒出来なかった者は、サイコによって暴走させられた遺伝子に耐えられず体を崩壊して 死んでいき。 そして、運良く力を得た者は。 その力の快楽に溺れ、心が壊れていった。 サイコによって死んでいく者。 サイコによって殺していく者。 それでも、薬の流出は止まらない。 それどころか、ここ最近、加速しているかのように犠牲者が増えている。 その行為によって得られるものは死しかないというのに。
「そこまでして、超能力って欲しいものなのかな」 「さぁな。とりあえず俺は、そんな得体の知れないモンはお断りだな」
突然割って入った声に二人は振返った。 部屋のドアに凭れて、一人の男性が立っている。 少し低めの身長に、小太りの体。 東洋系の血が入っているのだろうか、黒い髪に薄い瞳が印象的なその男。 だが、妙に惹きつけられる雰囲気を漂わせている。
「レオン。人を呼び出しておいて、今まで何処に行っていたんだ」 「何言ってんだ。俺はお前達がゆぅぅぅっくりと現場検証が出来るようにと、気をきかせて やったんじゃないか」
そう言って、レオンと呼ばれた男性は、咥えていた煙草に火をつけると二人に近づいてき た。
「……殺人現場で煙草吸うなよな」 「ああ。もう現場検証は終わってるからいいんだよ」 「俺さぁ、時々アンタが刑事だっていうの信じられない時があるんだけど」 「ほう。気が合うな。俺なんか、本当にお前達がサイキッカーなのか、毎日疑ってるぜ」 「あれだけ、人の事こき使っていて言うセリフかぁ?」 「お前ら、妙に人間くせぇからな」
にやり、と笑ってレオンは部屋をぐるりと見まわした。 煙草の煙が、ゆっくりと円を描いていく。
「で、何かわかったのか?」
紫煙を吐き出しながら、静かに訊ねる。 先程までのふざけた雰囲気は消えて、刑事の顔をしていた。
「今の所は、手持ちのカードが少なすぎる。わかっている事といえば、この殺人がサイコの 使用者だって事だけだ」 「そうか。なら、これで調書の方も書けるというわけだな」
やれやれ、といった感じで言う。 何気ない言葉。何気ない態度。
「……前から思っていたんだが」 「何だ?」 「アンタ、簡単に僕達の事を信用しすぎていないか?」 「何で?」 「騙されているとかは、思わないのか?」 「騙しているのか?」 「そうじゃなくてっっ」
キースは少し苛立ちながら言葉を放つ。 何故かいつもこの男には、会話のペースを乱されてしまう。 いくら、今は国の保護下におかれているとはいえ、少し前までは戦争をしかけていた自分 達だ。 普通の人間達は今だに、自分達を畏怖の目で見ているところもあるというのに。 この男は、初対面の時からこうだった。 興味なさそうに自分達を見たかと思うと、次にはいきなりタメ口だ。 バーンは即効で気に入ったらしく、いきなりフレンドリーになっていたが。 自分は、こういうのには慣れていない。 だから、何時も不思議な思いがする。 どうしてそこまで信用するのか。
「んな事言われてもなぁ、サイキッカーじゃねーと、サイコを使った犯罪かサイキッカーの 犯罪か、区別つかねーじゃねぇか」
普通の人間には、サイキッカーとサイコの区別がつかず、ただの超能力として纏められて しまう。 サイキッカーの起こした事件か、サイコの起こした事件か、区別する必要があった。 だが、ここで一つの問題が浮上した。 サイキッカーはその能力を使うとき、ある特殊な力の痕跡を残して行く。 それにより、サイキッカー達は相手が同士なのかどうか、また何処にいようとも場所を特 定したりする事ができるのだった。 だが、サイコ使用者の場合は少々勝手が違った。 悪薬により、無理矢理引き出されたその力は、サイキッカーとは異なる部分で力を発動さ せているらしく、力の痕跡が感じられないのだ。 これは一つの恐怖だった。 普通の人間と変わらぬ者達が超能力を持ち、何食わぬ顔で罪を犯していく。 それを知らない者達は、目に見える能力者。サイキッカー達を責めていく。 それを避ける為に、国は『ノア』に協力を要請した。 不可解な事件が起これば、サイキッカー達はその現場に赴き、力の痕跡があるかどうか確 認をする。 ここで、自分達と同種の波動を感じれば、その事件はサイキッカーが起こしたものだと。 何も感じなければ、それはサイコによる犯罪だと区別がつく。 そして、それは犯人の絞込みになるのだった。 だが、全ての警察機関がサイキッカーを受け入れたわけではない。 同士を庇うために、嘘の発言をしていると思っている者も少なくない。 だけど、目の前のこの男は簡単に信じる。 まるでそれが、当たり前のように。
「どうして、そう簡単に信じるんだ」
レオンは、煙草をふかしながらキースを見る。 そして、先程から傍観していたバーンと目があうと、にやりと笑った。
「サイキッカーだけが、人を騙すとは限らねぇさ。人間だって、沢山騙して人を殺したりし ているさ。それに、俺はそんなに寛大な男じゃねぇぞ。俺だって、今まで何度も騙してきて されてきた。だから、わかるだけなんだよ」 「何が?」 「そいつが信用できるかどうか」
先の短くなった煙草を、携帯用の灰皿でもみ消すと、また新しい煙草に火をつける。
「俺はお前達だから、信用しているんだよ」
さらりと、とんでもない事を言う。 それは、最高の殺し文句だ。
「さてと、くだらねー御喋りはここまでとして、本題に入るとするか。でないと、そろそろ 死体さんの状態も悪くなっちまうしな」
レオンはそう言って、部屋の中央に視線を向けた。 それを聞いて、バーンは疑問を口にする。
「そういやさぁ、鑑識はもう済んだんだよな」 「ああ」 「何で、死体残してるの?」 「そりゃお前、その方がお前達も調べやすいだろ?現場保存は、捜査の基本だからな」
確かに、普通の捜査ではそうだろう。 しかしこちらは、力の痕跡を調べるだけなのだから、別に死体を残しておいてくれなくて も、一向に構わないのだ。 むしろ、残しておいてくれない方がありがたい。
「今度から止めて」
脱力しながらバーンが言う。
「何だ。お気に召さなかったのか?」 「召すかっっ」
へいへい。とバーンを宥めながら、レオンは携帯電話を取り出し、外に待機させている部 下を呼んだ。死体を持ち帰らせるためだろう。 暫く間をおいてから、数人の制服を着た警官が部屋の中に入ってきた。 転がっている死体に布を被せ、まるで物のように運んで行く。 実際、人の原型を留めていない死体なのだが。
「警部」
一人の警官がレオンに声をかける。
「被害者の娘なのですが…」 「ん?ああ、連絡ついたのか?」 「はい」
その会話を聞いて、ふとキースは疑問を感じた。
「…被害者は一人暮しだと聞いたが」 「一人暮しさ。だが娘は一人だけいる。親子は必ず一緒に暮らしているって限らねぇのさ」 「それで、その子は今何処に?」 「病院だよ。何年か前に事故にあって、歩けなくなっているらしい。名前は、ミリアム。ミ リアム・ガーネット。今年で十四歳になる可愛子ちゃんだっ」 「ミリアム?」
その名前を聞いて、バーンは大きな声で叫んだ。
「その子、ミリィって呼ばれてたりしないか?」 「お…おう。何だ、お前まさか知り合いか?」
レオンは驚いてバーンに訊ねる。 ミリアム・ガーネット。 ミリィ。 もしその子が、自分の知っている小さなミリィならば。
「あの子は四年前に死んだはずだ…」