「確か、何とかは風邪ひかない、って言わなかったっけ?ああ。でも夏風邪は、馬鹿がひ くんだったわよね」
俺の頭に氷水で濡らしたタオルを置きながら、ウェンディーは感心したように、声をかけ てくる。 くそぅ。好き勝手言いやがって。 こっちは好き好んでで寝込んでいるんじゃないんだぞ。 そう言い返してやりたいのだが、熱に冒されているこの体は、その反撃をさせるほどの体 力すら残っていなかった。 代わりに、呻き声だか何だかからない声が漏れていく。
「そうとう重症よね」
はい。仰る通りでございます。 もう何でもいいから助けて、って感じ。 頭痛―い。体ダルーイ。
「それじゃあ、また後で来るから大人しく寝てるのよ。無理して起き上がろうとしたら、 ブッ飛ばすからね」
洒落にならない事を言って、ウェンディーは部屋から出ていった。 何が洒落にならないって、アイツは一度言った事は本気で実行してしまうのだ。 言うとおり大人しくしていないと、特大の突風で部屋ごと吹き飛ばしてくれるだろう。 そして気がついたら別世界に着いてて、元の世界に戻るために、ブリキの樵と弱虫のライ オンと藁の案山子を仲間にして、魔法使いの所に行ったりするんだ、きっと。
……何考えてんだよ。
暴走していく思考回路を強制的に終了させて、て深い溜息をついた。 どっちにしろ、この状態では動く事すらできないのだ。 今日は大人しく寝ているのが一番だろう。
その時、開け放たれた窓の方から、涼やかな音が聞こえてくる。
ふと見てみると、窓から入ってくる風に揺られて、日本の風物詩だか何だかで貰った風鈴 が揺れていた。 ガラスで出来ているそれは、透き通る蒼色をしていた。 その中に鮮やかな朱色で描かれた魚の姿があり、何だかとても気持ち良さそうに見える。
泳いでるみてぇ…。
寝転がっている自分の場所からは見える風景は、夏の空と風鈴しか見えない。 風鈴の蒼と空の青が混じって、風が吹くたびに赤い魚が泳いでいるように揺れる。
空の海。泳ぐ魚。 だとしたら白い雲は波か。
ぼんやりと、その景色を眺めていたら、何だか眠くなってきた。 熱があるせいでもあるのだが、風鈴の音があまりにも心地良いからだろう。 風鈴の音しか聞こえない、静かな夏の午後。 いつもなら、いろんな人種が犇めき合って騒がしいこの建物も、今日は何か重要な仕事が あるとか何とかで、今ここには僅かな人数しか残っていない。 ここの一番偉い人も、数日前から出っ放しだった。 確か、イギリスの方に行くって言ってたっけ。 久しぶりに、生まれ故郷に行くとか何とか。
会いたいなぁ。
熱が出たら人恋しくなると聞いた。 誰かに側にいてほしいと願ってしまう。 でも誰かではなく、側にいてほしいのは一人しか思いつかない。
側にいたら、気持ち良さそうなのになぁ。
熱で火照っている体を冷やしてくれそうで。 別に側にいてほしいのは、それだけが理由じゃないけれど。 風鈴の音を聞きながら、俺はゆっくりと目を閉じた。
…何か冷たいものが頭の上に乗っている? ああ。さっきウェンディーが置いてくれたタオルか。 …いやちょっと待てよ。何かおかしくないかコレ? タオルのわりには、微妙に重いような……。
目を覚ました俺は寝転がったまま、恐る恐るタオルが置かれている頭の方に手を伸ばした。 指先が何か冷たい物体に触れる。
……物体?
今度は両手で、その物体を掴み目の前をゆっくりと持ってくる。 痛いぐらいに冷たいもので出来ているソレが何なのか。 見た瞬間、呆然としてしまったが、暫くすると笑いがこみ上げてきた。
「こんな事するの、キースしかいねーよな」
手の中には、可愛らしい雪だるまが収まっていた。 この暑さの中でも溶けようとしない、不思議な雪だるま。 まるで、真夏の中の魔法のように見える。
「しかし、こんなの人の頭の上に乗せるか?普通」
でもおかげで、妙に頭がスッキリしている。 きっと、この雪だるまが自分の熱を吸い取ってしまったのだろう。 そう思って雪だるまを触っていると、何か後ろに付いているのに気づいた。 何かと思い手にとって見ると、そこには小さく折りたたまれた紙がついていた。
手紙?
雪だるまを再び頭に戻し、両手を開けた俺は、ゆっくりとその紙をひろげ中身を確認した。
明日には帰る
一言だけ書かれた、素っ気無い文章。 その筆跡は、見覚えのあるキースのものだった。
…て事は何ですか? キースはまだ帰ってきてないって事だよな。 なのに俺の頭の上に雪だるまがあるという事は…。 もしかしてコイツ、この為だけに一旦戻ってきたのか? 雪だるま乗っけるためだけに? いくらサイキッカーで、テレポーターがいるからって、職権乱用だぞ、おい…。 そんな事を思いつつも、本音はというと。
どうしよう。滅茶苦茶嬉しいかも。 きっと今顔が赤いのは、熱のせいだけじゃあないんだろうな。
風が吹いて風鈴の音が、気持ち良い音で鳴り響く。
数日後、ノアの冷凍室には何故か、小さな雪だるまが鎮座しているのを、人々は不思議そ うな顔をして眺めていたという。