空の底
まるで水の中にいるような気分だった。この身体に纏わりつく感覚も、波のように流れて いく風景全てが、自分を水の中にいるような気持ちにさせる。それでも呼吸は出来ているの で、ここは水の中では無いのだろう。もっとも、これから消滅していく存在の自分がまだ、 呼吸をちゃんとしているのかというのも保証はない。もしかしたら呼吸をしている、と自分 で思い込んでいるだけなのかもしれない。 昇っているのか沈んでいるのかわからないこの不安定な乳白色の世界に漂いながら、ジュ ーダスは馬鹿な想像をしてしまった己を小さく笑った。きっと長い間、馬鹿な連中と一緒に いたものだから、自分にも影響が出てしまったのだろう。
「まったく…情けない」
小声で、ポツリと呟いたが声は少し楽しそうに聞こえる。悪くは無い。そう、こういった 感情も悪くは無いと、素直に思える。ジューダスは瞳をゆっくりと閉じて、先程まで一緒に いた仲間達を思い出す。 ハロルド、ナナリー、ロニ、リアラ、そしてカイル。ゆっくりと名前を挙げて行き、その 姿を瞼の裏で蘇らせる。カイルの鮮やかな金髪に澄んだ青い瞳、それは彼の父親と同じ色を していた。まるで生き写しのようなその容姿だったが、やはり彼とはどこか違う存在に、自 分は少し安堵していた部分がある。ジューダスは閉じていた瞳を開き、自分の周囲をゆった りと流れてく景色に視線を向けた。 そして、その流れて行く景色の中に、一人の姿を見つける。 鮮やかな金髪。
「…お前と同じだったら」
澄んだ青い瞳。
「きっと、一緒に旅なんか出来なかっただろうな」
腹が立つ程に、無垢な笑顔。
「そうだろ…スタン?」
そこには、懐かしい人の姿があった。スタンだけでない、ルーティやフィアラ。そしてウ ッドロウや…あの時の自分自信。リオン・マグナスの姿が見えた。 それは不思議な光景だった。 過去の出来事が、映写機で映されているかのように流れている。それは克明な映像ではな く、いつ消えるかわからない不安定な状態ではあったが、その空間が。あの状況の中で、確 かに自分が幸せだと感じていた時間だったから。 ジューダスはただ、流れていく光景をじっと見つめていた。 よく見れば、周囲の景色にいろいろな映像が展開され、そして流れて行く。それはつい先 程の戦いの場面であったり、キャンプ中の他愛無い出来事だったり。映っては消え、そして 流れ。様々な光景が、ジューダスが進んでいる方向とは逆方向へと向かっている。
(これは僕の記憶だ)
流れを視線で追いながら、ぼんやりと思う。
(そして世界の記憶でもある)
神の手によって作りかえられた世界が、今必死になって再生しようとしているのだ。抑え つけられていた記憶を解放し、元ある場所へと戻ろうとしている。そして自分も、あるべき 場所へと戻るのだ。消える為に。 そんな事を、ふと考えてしまった自分に小さく舌打ちをすると、ジューダスは視線を目の 前の景色へと戻した。せめて自分という存在が消えてしまう前に、彼のその姿を覚えておこ うと思ったのだが、既に先程まで映っていた映像は消え、新たな映像が流れていた。 そしてジューダスは、息を呑む。 映像に映し出されていたのは一面の赤。赤。赤。 そしてその中に倒れている、鮮やかな金。 自分がこの世界に蘇らされた時に見せつけられた、その光景。
『嬉シクハナイノカ?』
何の感情も見せずにその光景を映し出したエルレインと、楽しそうに語ったバルバトスに 初めての殺意を抱いた。
『オ前モ奴ヲ殺ソウトシタデハナイカ』
そしてあの場所から飛び出し、カイル達と出会った。 あの忌まわしい光景が、今、また自分の前に映し出される。
「………っ」
見せるな。
「…ンっ」
頼むから、見せないでくれ。
「スタンっっ」
彼が死ぬ所なんか、見せないでくれ。 ジューダスは必死になって両手を伸ばした。これは映像なのだ。世界がただ、思い出そう としているだけのものなのだ。わかっている。
「そんな事はわかってはいる」
小さく呟き、尚も両手を伸ばす。それは、あの倒れている彼を早く抱き上げようとしてい るかのように見えた。指先が映像を映し出されている水幕のようなものに触れ、そこから波 紋が広がり映像が揺れた。彼の姿も揺らぎ、その姿がすぅ…っと薄まる。 消えてしまう。 そう考えた瞬間ジューダスは、その手を更に差し出した。手が、水の中に入れたような感 覚になる。肘から先がその幕の先に消えて、自分でもどうなっているのかわからない。それ でも必死になって、指先は彼を求めた。
「スタン」
映像は段々とその色を無くし、消えていこうとしている。
「スタン」
何も、今自分がこんなに必死になる事はない。神の干渉が消えた今、スタンが殺された出 来事もなくなるのだから。
「スタンっ」
それでも。 それでも、例え映像とはいえ、彼が倒れているのを黙って見過ごす事はできないのだ。だ から。
「スタンっっ」
思いを込めて、ジューダスは叫んだ。そしてその瞬間、ありえない事が起きたのだ。映像 の中で倒れていたスタンの瞳が一瞬開き、そしてゆっくりと視線をこちらに向ける。 目があった。そう思った瞬間、ジューダスは伸ばした指先に、何かが触れたのを感じた。 ドクン、と鼓動が大きく震えたのを感じる。小さく震えて呼吸がうまくできない体に叱咤を して、ジューダスはその触れた何かを掴み、一気に自分の元へと引っ張り出した。 それは、奇跡なのだろうか。 神を否定した自分には、これを何と呼べばいいのかわからなかった。 水面から現われるように、その姿がゆっくりとジューダスの元へと倒れ込む。鮮やかな金 髪。今は閉じられた瞼の向こうには、澄んだ青い瞳。そして、左肩から胸まで届いている痛 いしいまでの傷痕と血の色。
「…スタン」
そう、スタン・エルロン。まさしく、彼そのものだった。自分が記憶している姿よりも、 少し成長したその体。長かった髪も、肩下あたりまで切られている。 ジューダスは震える体を止めるかのように、腕の中にいるスタンを抱きしめた。まるで壊 れ物を扱うかのように、そっと。そしてゆっくりと息を吐き、自分の体の中で暴れている心 音を落ちつかせようとする。 心地良い。スタンの髪に顔を埋め、ジューダスは目を閉じた。腕の中に感じる体温が、や っくりと自分へと浸透していくように感じられる。そしてようやく落ちついたころに、スタ ンの怪我を思いだし、慌ててその腕を離してバルバトスによって受けた傷を確認しようとし たのだが。
「…消えている?」
確かにそこを斬られたという名残の服の破れや血痕は見られるのだが、その体からは傷痕 が消えていた。いや、うっすらとではあるが、赤みがかった線らしきものが浮かんで見える。 おそらく、世界の修正の影響なのだろう。スタンが死んだ、という歴史が無かった事にな っているのだ。そう気付いて、ジューダスは自分でも気付かないまま、安堵の息を吐いてい た。 それが聞こえたのだろうか。まるでそれが合図であったかのように、その重く閉じられて いたスタンの瞼がゆっくりと開けられ、その澄んだ青い瞳を覗かせた。 突然の事に驚いたのか、ジューダスは慌てて、しかし第三者から見ると極めて自然にスタ ンの体から腕を離した。スタンは、何度も瞬きをして自分の置かれている状況を把握してい ないらしく、少し考え込むかのように周囲を見回した。そして暫く考えて、何らかの答えに 辿りついたのだろう、納得したように頷いて。
「夢か」
そう呟いてまた目を閉じ、再び眠りの体制に入った。 それを見てジューダスは今更ながら思い出した。そうだった、コイツは低血圧の寝ぼすけ 男だった。その瞬間思わず手を握り締め、迷うことなくスタンの頭部めがけてその拳を振り 落とした。
「貴様は馬鹿かっ。さっさと起きろっっ」 「いってぇぇぇぇぇっっっ」
華麗なその攻撃が綺麗に決まり、スタンは頭部を抑えて涙目で叫んだ。手加減無しで殴っ たのだから、それはかなりの痛さだったのだろう。何しろスタンが起きたぐらいの衝撃だっ たのだから。
「誰だよ、こんな起こし方するの……は?」
完全に目が覚めたスタンが加害者に向けて視線を向けると、そこには変な仮面をつけた男 が一人いるだけであった。あまりにも突然のインパクトで思わず怒りも忘れ、そのままジュ ーダスの姿を見つめる。そして暫くすると、自分がいるこの空間の異様さに気付き、そちら の方にも視線を向けて複雑な顔を見せた。
「…何処だよここ」 「深く考えるな。馬鹿な頭で考えても理解できまい」 「……っっ。何なんだよお前はっ。初対面のくせに偉そうだぞ」
あまりにもな暴言に、スタンはキッとジューダスを睨みつけた。相変わらず単純な挑発に すぐのる。それが可笑しくて、口の端を持ち上げて小さく笑った。
「笑うなっつーの。…っでも、本当にここ何処だよ。それにお前…誰だ?」
少し唇を尖らせて文句を言っていたが、不意にその表情を真剣なものに変化させる。
「…聞いてどうする?」 「だって、気になるし」
至極真っ当な答えであった。確かに、目が覚めて突然こんな状況に放り込まれると、いろ いろと聞きたくもなる。
「つーかさぁ…、確か俺って誰かに斬られたような気がするんだけどなー…?」
そう言ってスタンは自分の体を見下ろし、まだ血痕が残っている胸元を指先で撫でる。
「斬られたんだよな…。アレ?でも誰に斬られたんだっけ?」
記憶の修正が始まっているのだろう。斬られた記憶は物的証拠もあるせいか、微かに覚え ているようだが、誰に、何のために斬られたのかまでは思い出せないらしい。 そのまま暫く考え込んでいたスタンだが、突然納得したような表情になり、両手を叩いて うんうんと頷いた。
「もしかしてアレか?ここが噂の死後の世界ってヤツか?」 「……は?」
突然の言葉に、思わずジューダスはまぬけな声を出してしまった。だが表情は崩さない、 完璧なまでのポーカーフェイスだ。
「違うのか?だって俺は斬られたみたいだけど、何か傷痕とか消えているし痛くないし。こ こは謎な世界だし。おまけに、もっと謎な人物が目の前にいるし。死後の世界と言った方が、 理解できる。うん」 「…謎な人物とは僕の事か?」 「それ以外に誰がいるんだ?」
さらり、と言ってのけたスタンにジューダスは脱力した。おそらく、それがスタンの中で 一番納得のいく答えだったのだろう。自分の理解の範囲を越えた状況に置かれても、その事 態を自分なりに受け止めるその柔軟且つ前向きな性格は彼の美点だった。しかしその前向き な性格は、このような異常事態にも前向き思考として現われるものなのだろうか。それ以前 に、死後の世界で納得してしまうのが前向きなのかと、思わず自問自答してしまう。
「…まぁ、確かにここは死後の世界に近いのかもしれない」
というよりも、ここは生と死の間にあるような世界だ。この世界の全ての時間、過去、未 来、現在が交わる、そんな場所。
「んー…。じゃあ俺も、死んじゃったって事なのか」
ジューダスの言葉を聞いて、スタンは小さく笑った。まるで泣くのを我慢しているような、 そうな寂しい笑顔。
「死ぬつもりは無かったんだけどなー。あ、もしかしてお前って、俺を迎えにきた死神って ヤツ?だからそんな変な仮面つけてるとか?」
それを誤魔化すように、先程とは打って変わって満面の笑顔を見せて、スタンはジューダ スの顔を覗き込んだが、その表情をとても受けとめる事が出来なくて、つい視線を反らせて しまった。
「黙れっ」
怒鳴りつけるように言ってしまった言葉に気付き、ジューダスは叱咤するように思わず己 の唇を噛んだ。
「……あ、悪ぃ…」
少し驚いて目を丸くしてみせたが、スタンはそのままジューダスから少し体を離す。何と なく気まずい空気が流れ、無言のまま向かい合う。
「…あの、さ」
その空気に我慢できなかったのだろう、スタンが言い難そうに口を開いた。その声を聞い て、ジューダスは視線を彼へと向ける。
「何か無神経な事言って…悪い。そうだよな。人の趣味とかって、それぞれに美学とか持っ ているもんだし、他人がどうこう言う権利とか無いもんな……」 「…おい」 「あっ、でも見る人が変われば、もうそれは凄い絶賛物かもしれないしっ。それに俺ってあ んまり美的感覚ってのが無いみたいだしっ。だから堂々と表通りを歩いてもいいって言うか 何っつーか…」 「いや。ちょっと待て。貴様はさっきから何を言ってる?」 「え?だから、俺が変な仮面だー、って言ったから怒ったんだろ?俺だって、自分の趣味に ケチつけられたら怒るだろーし…」 「……いつ、誰が、仮面の事で怒ったんだ……?」 まるで地を這うような低い声を、腹の底から押し出して問い質した。 「違うのか?」 「違うっっ。そもそも僕は、貴様に対して怒ってなんかいないっ」 「……じゃあ」
誰に? そうスタンの瞳が呟く。その瞳を真正面から受け止め、ジューダスは小さく溜息を吐いた。
「…誰とかじゃなくって…。ただ、自分に呆れただけだよ」
緊張の為か、小さく震える手を口元に当てて、言葉を続ける。
「お前に言われて気付かされた。いや、本当はとうに気付いたいたのかもしれない。僕は… お前の死神だ。昔も、今も…きっと、この先に未来が存在していたとしても」 「………」
あの時、スタンを本気で殺そうとした。自分の守るべきものを守る為に、本気で。それは 今でも後悔はしていない。
「お前を苦しめてばかり…いる」
だが許せなかったのは、死した己の体をいいように利用され、スタン達を襲った事だ。例 え不本意な事であったしても、到底許される事ではない。いや、例え許されたとしても、自 分が許せなかった。
「すまない……スタン」
せめて、彼がもう少し酷い男であれば良かった。自分がもっと非常な性格であれば良かっ た。 そして。 彼に、好意を持たなければ良かった。 そんな、変える事の出来ない過去を思い目を閉じ俯いていたジューダスは、突然暖かな存 在に包まれた。慌てて顔を上げると、視界に映ったのはスタンの肩越しに見えた乳白色の世 界。まるで母親に抱きしめられたような感覚で、ジューダスはスタンの腕の中にいた。
「な、何をっ…」 「今、思い出した」 「……?」 「俺がここに来る前の事。斬られて、血がたくさん流れて…痛くて。もう駄目だと意識を手 放した時に、誰かの声が聞こえたんだ。凄く必死に俺の名前を呼んで…その声が暖かくて。 俺は、その声の方へ行かなきゃと思った」 「……」 「名前…さっき呼んでくれた時に、思い出したんだ。俺をあそこから呼んでいたのは…お前 なんだろ?俺を……助けようとしてくれたんだろ?」 「…っ僕は」 「ありがとう」
その言葉が。 この暖かな腕が。 自分を許すと言ってくれているような気がした。 この罪深き存在の自分を、この男が。 許す、と。 そう言ってくれたような気がした。 ああ、いるはずもない神に感謝します。ただ、死する存在のこの身に、最後の最後でこん な幸せを得られるとは。ジューダスは、胸の奥が熱くなるのを感じた。既に流す涙は枯れて しまったが、嬉しくて泣く、というのはきっと、こんな時に起こるのだろう。 その両腕をゆっくりと持ち上げ、彼の背中に回そうとした時、二人の周囲を流れていた世 界が速度を上げている事に気付いた。
時がきたのだ。
世界が、その時間を取り戻そうとしている。 ジューダスは上げた手をスタンの肩に当て、その体をゆっくりと離す。
「…いいかスタン、よく聞け。お前は今から生き返るんだ」 「…え?」 「この世界の流れにそって行くんだ。そうすれば、お前は生き返る事が出来る。…いや、死 んだという事実が消えるんだ」
そう言ってジューダスは、流れの先にある光を指し示した。その光は優しく輝いて、生命 の暖かさに満ちている。
「…どういう事だ?ていうかお前は行かないのか?何で俺だけ……」 「説明してやる時間は無いし、僕の事を心配する必要もない。それに説明したところで、お 前は忘れてしまうのだから」 「何だよそれ。いくら俺が馬鹿でも、そう簡単に忘れたりしないぞっ」 「自分で馬鹿を認めてどうする。この馬鹿が」
いいからさっさと行け。と、まるで犬を追い払うかのように手を振って、スタンを急かす。 それに腹が立ったのか、スタンは眉を寄せてジューダスの横を通りすぎた。
「わかったよ。行けばいいんだろ、行けばっ」
そう言って一歩踏み出したスタンだが、そのまま二歩目を出せずに立ち止まる。そしてゆ っくりと背後を振り返り、ジューダスへと視線を向けた。その表情は先程まで怒っていたそ ぶりを微塵も見せずに、穏やかで真剣だった。
「どうした?」 「…名前、聞いてなかったなー…って。そう思って…」 「聞いてどうする」 「お前は俺の名前を知っていただろ?ずるくないかソレって」
少し拗ねたようなその顔に、ジューダスは小さく笑った。もう二十代も後半に入るのだろ うに、その仕種は少年の時のままだった。
「…ジューダスだ」 「そっか、ジューダスか…。よーし、絶対に忘れないからなっ。だからまた後で確認しに来 いよなっ」 「…覚えていたらな」
叶えられない約束を交わす。だがそう言うとスタンが安心するとわかっていたので、口に したのだ。その証拠に、スタンは笑みを浮かべて光の方向へと歩き出した。 思えば、自分の人生は嘘で出来ていた。ならば嘘で終わるのも仕方がないのだろう。どう せ、この世界での出来事は記憶から消え失せてしまう。いま交わした約束も、無かった事に なるのだ。 ならば。 どうせ忘れてしまうのならば。
「スタンっ」
そう思った瞬間に名前を呼んでいた。スタンが立ち止まり、こちらを振り向く。
「ジューダスも僕の名前だが…、本当の名前はもう一つある」
そして自分は彼の元へと駆け出した。 最後に真実を。 忘れてしまう真実を告げよう。 ジューダスはその仮面を取り外して不適に笑い。
驚いて動けない彼の唇に、自分の唇を重ねた。
初めて触れたそれは、とても暖かいものだった。それが何故か嬉しくて、思わず笑みを浮 かべてしまう。そしてまだ動く事の出来ないスタンの肩をそっと押すと、その体は流れに乗 って光の出口へと向かった。 幸せに。 幸せに。 それだけが自分の願い。 彼が掴んだ平和な世界で、彼が平和に過ごしている。 それは何と、素晴らしい事なのだろう。 ジューダスは仮面をつけ直して、去って行く彼の姿をずっと見つめていた。
そこでやっと現状に気付いたスタンは、慌てて体制を立て直し戻ろうとするが、その流れ に逆らう事が出来ずに、ジューダスからどんどん引き離されて行く。
「…っかやろう」
必死に流れに抵抗するが、そのスピードは勢いを増すばかりであった。もう、彼の表情す ら見えない。スタンは顔を俯かせ、触れられた唇を手で覆った。子供のような、触れるだけ のキス。
「……最後まで…嘘ばっかついて…」
そして最後の最後に。
「…リオン……っ」
あんな笑顔を見せるなんて、卑怯だと。 光に包まれながら、スタンは思った。
「…さん。父さんってばっ」
耳元で呼ばれて、スタンは思わず目を開いた。
「……あれ?」
「あれ?じゃないよ。何回呼んだと思っているのさ。今日は稽古つけてくれる約束だろ?」
寝転がっていた自分の体の上に、カイルが少し怒ったような顔をして自分を除き込んでい る。スタンは大きな欠伸をして、ゆっくりと体を起こし頭を掻いた。 ここは家の裏手にある森の中。確か、散歩をしようとして歩いていたのだが、気持ちの良 い天気だったので思わずお気に入りの場所で寝転がってしまった所までは覚えているのだ けれど。
「…あー…。また寝ていたのか」 「俺も人の事言えないけどさー、父さんの何処にでも寝る癖、なんとかした方がいいよ?」 「面目ない。わさわざ探しにきてくれたのか」
ありがと、と照れたように笑って、目の前にいる息子の頭を撫でた。そうすると嬉しそう に、エヘヘと笑うのだ。
「あ、そうだ。今日はロニも来るって言ってたよ。午後から休みを貰えたから、パンを届け にくるついでにって」 「へー。それはうちのチビ達が喜ぶな。よし、カイル。お前先に戻って準備していろよ。俺 は眠気覚ましに、歩いて帰るから」
そう言ってスタンは大きく伸びをして、緑色のふかふかした自然の布団から立ち上がる。 それにつられて、カイルも草がついた膝を払い落としながら立ち上がった。
「いいけど、また途中で寝たら怒るからな。俺があみ出した超必殺技をお見舞いするぞ」 「よーし、ならば父さんだってスペシャルゴールデンな技で対抗してやるさ」
お互い顔を見合わせて不適に笑い、そして次は楽しそうに笑った。
「じゃ、先に行って待っているねー」
笑顔のままカイルは家へと向かって走り去って行き、スタンは小さく手を振りながらそれ を見送った。 大きくなったもんだ、と感慨深げに思う。ぐんぐんと成長して行く息子を見て、嬉しいよ うな、少し寂しいような気持ちになりながら、スタンも帰宅する為に歩き出した。 暫く歩いて村の入り口へと繋がる小道に出た所で、大きな荷台を引いた馬車を見つけた。 何だろうと近づいてみると、それは数ヶ月に一度、この村に訪れる旅の行商人の馬車である 事に気付いたスタンは、店出しの準備をした店主に向かって挨拶をした。
「おやじさん、久し振りー。今回も何か掘り出し物とかある?」 「スタンじゃないか。もちろん、今回もいろんな商品を取り揃えているに決まっているだろ。 まだ開店前だが、特別に見て行ってもかまわないぜ」
声をかけてきた相手がスタンだと気付くと、店主は愛想よくその荷台に乗せていた商品を 見せた。孤児院の子供達の為に、よくこの店主から商品を買うスタンは、いつのまにかここ のお得意様になっていたのだった。その言葉に甘えて、スタンはそこに並べられていた商品 を嬉しそうに見つめた。色とりどりのガラス球に、木で作られたからくり時計。可愛らしい 熊のぬいぐるみを手に取って、これなんか喜ぶかなー、と思っていた時にスタンは荷台の隅 に置かれていた物に気づき、一瞬心臓が止まるのかと思った。熊を元の位置に戻して、震え る手でそれを持ち上げる。
それは、何かの骨で作られた仮面だった。
大きさからして、動物か怪物の骨だろうか。初めて見るそれがどこか懐かしくて、スタン は不思議と泣きそうになる。その感情を懸命に堪えて、何事も無かったかのように店主へと 声をかけた。
「おやじさん。これも売り物?」 「ん?ああ、それはここに来る途中で拾った品物でさー。変な仮面だから売り物にはならな いと思ったんだが、何となく持ってきちまってよ」 「へー、そうなんだ」 「何だ?それが気に入ったのか?」 「え?…うんまぁちょっと…ね」
へへへ、と笑ったスタンを見て店主は少し考え込んだが、暫くして笑顔で強くスタンの肩 を叩いて言った。
「よーし、いつも御贔屓にしてもらっているし、この世界を救ってくれた英雄へのサービス だ。持っていってもいいよ」
その言葉にスタンは驚いて声を上げた。
「え?持って行ってって…いいの?」 「いいのいいの、男に二言はねーんだってっ。どうせ拾ったもんだし、こちらとしては痛く も痒くもないしな」
そう言って胸のポケットから煙草を取り出し、店主はにこにこと笑いながらそれを口に咥 えた。
「おやじさん…男前―」 「はっ。今更な事言ってんじゃないよ。その変わり、後でチビ達を連れて何か買いに来てく れな」 「もちろん来るさ。ありがとう、おやじさんっ」
満面の笑みで約束を交わすと、スタンは大切そうにその仮面を胸に抱きしめて、その場を 後にした。カイルの待っている家へと早く向かわなければいけないのだが、何故か今は一人 になりたくて、先程までいた森の方へと足が向かう。暫く歩いて、周囲に誰もいないと確認 すると、スタンはその仮面をじっと見つめ、いろんな角度から覗き込んだ。それから何とな くそれを自分の頭に乗せて、すっぽりと被って空を仰いでみる。 仮面から見た空は、何処か閉鎖的で狭苦しく感じられた。 それでも仮面を取り外す事をせず、そのまま空を仰ぎ見る。 どうしてだろう。 この仮面を見ると、遠い昔の仲間を思い出す。 頑固で偉そうでプライドが高くて。 でも誰よりも、自分の信念を持っていた人で。
「…リオン……」
仮面越しに思い浮かべる彼の表情は、穏やかな笑みを浮かべていた。いつも仏頂面をして いて、そんな風に笑った記憶等無いのに。 でもそれは、本当に幸せそうな笑顔だったので。 スタンは仮面の中で、声も出さずに静かに泣いた。 泣く事しか、出来なかった。