ペダルを漕ぐ足に力を込めて、自転車置き場から飛び出した。銀色の車体が夕焼に反射し て、持ち主の髪と同じオレンジ色に染まってキラキラと光っている。 早く、早くしないと追いつけなくなってしまう。 部活で酷使した体に鞭を打って、千石は必死に自転車のペダルを漕ぐ。その速度は、頑張 れば競輪選手にもなれるであろうと、目撃した生徒達が証言するほどの早さであった。 校門を出て左に曲がり、速度を落とさないまま前方に視線を向けると、二つ先の信号での んびりと信号待ちしている探し人を発見した。目立つ銀色頭のおかげでもあるが、こんな時 に自分の視力の良さに感謝したくなる。千石は嬉しそうに笑うと、更に力を込めてペダルを 漕いだ。信号は赤だったが、隙を見て渡ってしまう。
「亜久津―っ」
先の信号が青に変わり、歩き出した亜久津の足を止める為に大声で名前を呼んだ。その声 にピクリと反応した亜久津が、眉を寄せてゆっくりと振り向く。
「……何やってんだテメェ」
目の前に颯爽と現われた千石を睨みつけて文句の一つでも言おうとしたが、ハァハァと荒 い呼吸をして披露困憊しているその姿に、少し驚いた表情を見せる。
「えへへへへ…、亜久津と一緒に帰ろうと思って」
乱れた呼吸を整えながら、千石は笑顔で言う。
「…はぁ?一緒に帰るっつっても、お前電車通学だろうが」 「亜久津―、俺のどこを見ているの?今、キヨ君が乗っているコレは何なのかなー?」
少し小首を傾げているその姿が可愛い、なんて思いながら千石は自分の乗っている自転車 のハンドルを叩いて説明した。 叩かれたハンドルから、その全体図をくまなく確認して亜久津は成る程と納得する。納得 はしたが、一つだけ疑問が出てきた。
「お前、いつからチャリ通になったんだ?」
確か以前、強制的に一緒に帰宅した時は電車通学のままだったはずだ。駅に向かう別れ道 にさしかかった時、今生の別れのような抱擁をかまされたので嫌でも記憶に残っている。
「一昨日からだよ。ほら、電車通って言ってもそんなに距離があるわけじゃないし、定期代 もバカにならないし。それに、これだと筋トレにもなるからね」 「今更筋トレして効果あるのかよ」 「あるかもしれないじゃん。今度の大会では、より高く空を舞うキヨ君を披露してみせるよ」 「テメェの試合なんか見ねーっての」 「見てよっ。絶対惚れ直すって。もうキヨ素敵っ、抱いてーっ。て言いたくなるぐらいに…」 「惚れてもいねーし、誰がそんな事を言うかっっっ!!!!」
顔を赤くして、思いっきり千石の頭を殴りつけた。 立ち止まってじゃれている間に、赤に変わっていた信号がまた青へと変わる。頭を押さえ てうめいている千石を置き去りにして、亜久津は横断歩道を足早に歩き出した。
「あっ、待ってってばー。一緒に帰ろうよーっ」
何とか復活した千石が、慌てて自転車を押しながら走り寄ってくる。自転車に乗った方が 早く追いつくのに、何を律儀に走ってくるのだろうか。必死になって走ってくるその姿を見 て、亜久津は溜息一つ吐いて千石を待つために立ち止まる。気分は愛犬を待つ飼い主そのも のであるが、千石はどうみても犬という性格ではないし、間違っても上に愛がつく代物では ない。しかし結局はこうやって待ってしまうので、自分はやはりどこか千石に甘いのだろう と考えてしまう。 ようやく追いついた千石が微笑むと、ポンポンと後の荷台を叩いて亜久津を促した。
「乗って」
家まで送っていく。 そんな千石の態度を見て、亜久津はまた溜息を吐くと、無言のままその荷台に腰を下ろし た。そしてポケットに入れていた煙草を取り出して、気怠そうにその一本を口に咥える。 今、ここに自分が座っているのは、部活で酷使した体をひきずって歩いて帰るのが面倒な だけだ。 ただ、それだけだ。
「ふらついたらブッ殺すからな」 「そんな事するわけないでしょ」
亜久津が素直に座ってくれたのが嬉しくて、千石の顔が綻ぶ。そして自分も自転車に跨り、 気合いをいれてペダルを漕ぎ出した。
「轟天号、行きまーすっっ」 「何だよそれ」 「自転車には轟天号って命名。これ常識でーす」
わかんねーよ、という小さな声が後から聞こえてくる。 背中から伝わる亜久津の体温が心地良い。 そんな事がとても嬉しくて、千石は笑顔のままペダルを漕ぐ足に力を込めた。
「…そういえばさ」 「何―?」 「お前の家の方角ってこっちじゃないよな」 「実はですねー、自転車からだとこっちからでも帰れる道を発見したのですよ」
やっぱ俺ってラッキーだよねー、と言う言葉を聞きながら亜久津は、ゆっくりと流れる景 色を眺めて煙草の煙を吐き出した。 何がラッキーなんだか。 きっと千石は、自分と一緒に帰る為に自転車通学に切り替えたのだろう。そしてこの二日 の間で、自分の家を経由して帰る道を探し当てたのだ。 こんな些細な時間の為に、嘘をつく千石。 亜久津は煙草を咥えたまま笑うと、何も気付いていない素振でこう言った。
「それじゃあ、今後もお前の筋トレに付き合ってやろうじゃねーの」
その方が俺も楽だしな、と付け加えられた言葉だが、それは千石を大いに喜ばせるもので あった。