千石清純が亜久津仁という名前を知ったのは、山吹中学に入学してから一週間たってから
のことだった。朝のHRが始まる前の教室の中、まだ相手の出方を覗っているような級友達
との雑談の中に、その名前が出てきたのである。聞けば入学草々、三年の上級生を殴り倒し
てしてしまい、現在停学中とか何とか。
 級友達は「そんな怖いヤツがいるのかよ」とか「うわぁ、同じクラスじゃなくて良かった」
とかいろいろ言っている。千石もまったくだねぇ、と笑いながら答えていたが、内心は何で
そんな事をするんだろうと不思議に思った。まだ入学して一週間だというのに停学になると
は馬鹿なヤツだなぁ、とも思った。それから話は別の話題へと移り、千石の頭の中から亜久
津の名前は忘れ去られた。
 次に千石が亜久津仁の名前を聞いたのは、三日後の事だった。移動教室の為に教材を持ち、
同じ部活仲間の南と歩いていると、通りすぎた教室のドアが開く音が聞こえ、何故そうした
のかは今でもわからないのだが千石は思わず振りかえり、そこに鮮やかな銀髪をした生徒が
立っている事に気付いた。身長は千石よりも少し大きいぐらいだろう。その生徒は面倒くさ
そうに千石達と正反対の方向へと廊下を歩き出し、時々窓の外へと視線を向けている。その
姿はどこか穏やかに見えたが、通りかかる生徒達が怖そうにその銀髪の生徒を見ているのが
変に思えた。
 あんなヤツこの学校にいたのだろうか?千石は、その姿を目で追いながら首を傾げた。い
くら他のクラスでも、あんなハデな頭は何処にいたって気付くものだ。なのに入学式にも、
この数日の間にも見た事がないぞ。
 疑問はすぐにでも確かめないといけない。千石は、隣にいた南の頭を強引に後に向かせて
聞いてみた。「ねぇ南、あれ誰?あんなハデなヤツここにいた?」勢いがついて、教科書が
落ちたが気にしない。だって早くしないと廊下を曲がって姿が消えてしまうじゃないか。
 何がなんだかわからない南だったが、奥の廊下を曲がった生徒の姿を確認して、仙石が何
を聞きたいのか理解した。そして、呆れたように答える。何だ千石、お前亜久津を知らない
のか。
 亜久津。ああ、あれが亜久津仁。
 彼は既にこの校内で知らない者は無いとまで言われている程の有名人だ。入学草々、上級
生と喧嘩をして勝利し停学になった少年。噂では、亜久津は無傷で、上級生達は骨を折るぐ
らいの重症だったとか。あいつ血まみれで笑っていたんだよ、とか。他校のヤツラと喧嘩し
て半殺しにしたんだって、とか。どこまで本当かわからない彼の噂は、千石の耳まできちん
と届けられていた。しかし、名前を聞いてはいても、当人の姿を今迄知らなかったというの
が、南にとっては驚いた事だったのだろう。
 その時、授業の開始をつげるチャイムが鳴り響き、まだ亜久津の消え去った方角を眺めて
いた千石の襟首を掴んで、南は慌てて移動教室へと向かう。引っ張られながら千石は、ああ、
あの銀髪は停学中に染めたのか。と、疑問の答えを導き出し納得する。そしてまた千石は亜
久津の名前を忘れた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 










「……嘘ぉ」
 体育館前に貼り出されたクラス発表を前にして、千石は大きく口を空けて呟いた。早いも
ので千石も三年生になり、入学当初はまだ着せられていたような感じの制服も、今では随分
と様になっている。
 中学生活最後の年。その年の命運を決めるクラス変えで、とんでもない事件が千石の身に
襲いかかった。見間違いでなければ、自分の名前が書かれているクラス一覧の頂上に光り輝
くお名前は…。
「災難だったな、千石。お前は、亜久津と同じクラスだ」
 労わるように南に肩を叩かれ、千石は大きく溜息を吐いた。グッバイ、俺の安息の一年間
…。思わずそんな事を心で呟いて、千石はポケットから取り出したハンカチをギリギリと噛
締め「キィィッ、南ちゃんったら意地悪な事を言って!!アタシと別れるのがそんなに嬉しい
のーっ!!」と叫びながら突撃してやった。勢いをつけすぎたのかドスッ、と嫌な音がして南
が咳き込む。あ、やりすぎた。ごめん南。
 うずくまった南を東方にまかせて、千石は逃げるように新しい教室へと向かって歩き出し
た。見ると、同じ場所に向かう生徒達の顔色は悪く、足取りは重い。皆、これからの一年を
想像して絶望してしまったのだろう。うんうん、気持ちはよーくわかるよ。
 亜久津仁という存在は、最早伝説に近いレベルにまで達していた。
 取り敢えず目を合わすな。言葉を交わすな。相手の機嫌が悪い時には近寄るな。良くても
近寄るな、の三原則がこの山吹中の中で浸透している。ちょっとでも破れば、そこには血の
祭が待ち構えているだけなのだ。実は既に死者が出ているという話もある。
 いやまぁ、さすがにそれはオーバーだろうけどね。いくら亜久津でも、人殺しはしないで
しょ。
 その噂を聞いた時、千石は思わず笑って否定してしまったのを思い出す。噂というものは、
人から人へと伝わる毎に、尾ひれがついていくものだ。実際に亜久津が人殺しをしていたら、
こんな呑気に学校に来ているわけがないのだから。しかし、やはり本人の迫力と粗暴さのせ
いか、やっぱり一人ぐらいは…。と思われるのも仕方がないのかもしれない。
 しかし、本当にこの一年間どうなるのであろうか…。千石は少し鬱になりながら考えた。
 別に千石は、亜久津に脅えているわけではない。この二年間、亜久津に暴力を振るわれた
わけでもないし、脅されたわけでもない。それ以前に、千石と亜久津には接点すら存在しな
かった。性格も、自分を取り巻く環境も何もかもが正反対の自分達なのだ。これで何かしら
交友関係がある方がおかしいと言える。だから千石は亜久津の凶行を聞いても、怖がりも脅
えもしなかった。むしろ、そういう人種なのだと理解していた、
 ならば何故、同じクラスになるのが嫌だったのかというと、亜久津がいることでクラス全
体に緊張した空気が張り詰められるのが嫌なのだ。亜久津がいるだけで、生徒達は恐怖に陥
る。先生もそうだ。そんな教室に誰が好んで入りたい?息苦しくって死んでしまいそうだ。
 だんだんムカムカしてきた。いっそのこと、このまま帰ってやろうか。そんなトコまで考
えている間に、教室の前まで辿りついていたようだ。しかし、様子がおかしい。何故、教室
の前に人だかりが出来ているのだろう。
「どうしたのさ、何で教室に入らないの?」
 人だかりの中に、見知った顔が見えたので聞いてみた。相手は千石の顔を見ると、何処か
泣きそうな表情をして教室の中を指差す。その先には、太陽の光を浴びた銀髪がキラキラと
色彩を放っていた。
「…亜久津ったらいつの間に来ていたんだ?」
 見ると、日当たりのいい窓際の後から二番目の席に突っ伏したまま、亜久津が眠っていた。
始業式に姿を見せなかったから、おそらく面倒なのでクラス発表だけ確認して、そのまま教
室に直行したのだがあまりの天気の良さに、いつのまにか眠ってしまったのだろう。うん、
完璧な推理だ。
「亜久津がいるのはわかるけどさ、何で入らないの?」
 まさかこのまま一年間、教室に入らないで過ごすわけにもいくまい。ならば入ったもの勝
ちとは言えないが、さっさと入った方がいいに決まっている。
 そう思って千石が教室に入ろうとすると、先程の生徒が慌てて声をかけてきた。
「千石っっ。お前どこの席に座る気なんだよ」
 どこの席…?ああそう言えば、まだ席順も何も決まっていないのだった。通常ならば出席
順となるのだが、今回ばかりは到底無理だろう。何故なら亜久津が既に自分のベストポジシ
ョンを得ているのだから。生徒の誰が、寝ている亜久津を叩き起こして「席違うから代れ」
と言えるのだろうか。自分達だって、とっとと教室に入って席につきたい。しかし、通常な
らば人気の高い窓際後方の席だけは死んでも嫌だ。
 その時、千石は素晴らしい名案を思いついた。うーん、俺ってやっぱり天才?さあ諸君、
この俺の発案を聞くがいいと思わせるような満面の笑顔を浮かべながら、両手を広げて生徒
達の方へ体毎振り向いた。
「よし、ちょっと早いけど席替えしよう」
 その一言で、山吹中初極力音を立てずに静かに迅速に席替え大会が開始された。
 くじ引きなら恨みっこないし、亜久津の席の隣にでもなったら自分の不運を呪えばいいだ
けなのだ。即席で作られたくじは、喜びに打ち震える者や悲しみに暮れる者を続々と生み出
している。そして我等が誇る、ラッキー千石の席はというと。
 ……何で視界に、銀髪が入るんだろう。
 と、遠い目で物思いにふけていた。千石の席は、窓際の一番後の席になった。




 

 

 

 

 






 亜久津の後の席になってしまった千石は、既に悟りの境地に達していた。開き直ったとも
言える。せっかくこの席になったのだから、この席ならではの楽しい事を見つけようと思い、
千石は亜久津観察を始める事にした。
 観察と言っても授業中だけである。休み時間になると亜久津はどこかに消えているし、放
課後は自分の部活があるので無理だ。朝なんか、亜久津が時間通りに登校した試しがない。
なので必然的に授業中限定となるのだが、その授業中ですら亜久津の姿を見ない方が多い。
そんなにサボっていて、出席日数とか成績とか大丈夫なのだろうか。何となくそんな心配を
してしまったが、ここは私立の学校である程度融通がきくし、それなりの成績を収めていれ
ば誰も文句を言わない。亜久津はいつ勉強しているのかと思えるほどの結果を、毎回のテス
トで叩き出していた。この二年間、亜久津が上位から転落した事は無いらしい。
 だから狂暴でも何も文句が言えないのかねぇ。と、前方にある白い背中を見つめながら、
千石はぼんやりと考えた。今日は珍しく亜久津が教室にいる日だ。一応教科書等は出してい
るものの、授業内容を聞いていないのは見てわかる。亜久津はただ面倒くさそうに、窓の外
に視線を向けていた。
 亜久津観察を始めて気付いた事の一つがこれだった。亜久津はよく、窓の外に視線を向け
る。頻繁に外を見ているので、何が見えるのだろうと自分も視線を向けた事があったが、そ
こには何も面白いものも無く、ただ極普通の日常風景が広がっているだけだった。なんだ、
何もないじゃないか。とがっかりして視線を戻しても、亜久津の視線は外に向けられたまま
だった。今みたいに、ただ外を見ている。
 そう言えば初めて亜久津を見た時も、廊下の外を眺めながら歩いていたっけ。ふと思い出
した記憶を、目の前にいる彼と重ねる。あの時も、こんな風に外を見ていた。
 なぁ、亜久津。何を見ているんだ?何が見えるんだ?
 千石は、その姿を見ながら思った。亜久津の見ているものが何なのか、知りたいと思って
しまった。
 そうと決まれば、千石の行動は素早い。相手の事を知る為には、まずお近づきにならない
といけないと思い、休み時間になると同時に姿を消す亜久津の後を、こっそりと追いかけた。
さすがに教室で話しかけると周囲の視線が鬱陶しいので、できれば二人きりになれるところ
で話しがしたい。亜久津が、屋上へと続く階段を登ったところで、千石はよしっ!!とガッツ
ポーズをとった。こんな時間に屋上へいく生徒は、自分達以外にいるわけがない。千石はウ
キウキしながら、亜久津に見つからないように階段を登り始めた。三階の踊り場で足を止め
上の様子を覗うと、ガチャリという重い音が聞こえ、それから扉の開く音が聞こえた。千石
はそれを聞くと、再び階段を登り屋上の扉へと向かう。校舎内に授業開始のチャイムが鳴り
響いたが、気にしない。千石は屋上の扉の前に立ちノブを掴むと、音を立てないように気づ
かれないように、そっとその外へと続く扉を開いた。
 開かれた扉の向こう側は、惚けてしまう程の快晴だった。
 千石は暫くの間その場に立ち止まって空を仰いでいたが、気が緩んで手放してしまったの
だろう、屋上の扉が閉まる大きな音に気づいて慌てふためいた。
 やばいっ。絶対に気づかれた。
 いや、亜久津と話す為に屋上に来たのだから別に気づかれてもいいのだが、千石の頭の中
からそんな考えは吹き飛んでいた。
「……誰だ?」
 自分のいる位置の反対側から不機嫌な声が聞こえた。それと同時に、煙草の匂いも届く。   
 うわぁ、こっちに来るのかなぁ。と思わず身構えてしまったが、いつまでたっても動く気
配が無いので、わざわざ闖入者である自分の姿を確認しようという気は無いようだ。千石は
覚悟を決めて、亜久津のいる場所へと歩き出した。
 数歩進んで、ひょいと顔を覗かせると、コンクリの壁に凭れて煙草を咥えている亜久津と
目があった。他者を断絶する、そのきつい眼差しに思わずどきりとする。
「何だテメェ…」
「うわ、俺の事知らないの?酷いー、同じクラスで席なんか亜久津の後なのにー」
 どきどきとする心臓を押さえて。千石はワザとはしゃいだ振りをして亜久津の隣に座った。 
 心臓が口から飛び出そうな程緊張している。信じられない、この俺がだよ?
 それでもそんな素振を全く見せずに、千石はにこにこと笑って亜久津を見た。しかし、亜
久津からすれば、にへらにへらと笑っているように見えただろう。
「あー、でもまだ俺達って会話した事もないし、亜久津もしょっちゅうサボッているから、
知らなくても変じゃないのかもね。俺ね、千石。千石清純。亜久津のクラスメイト」
 自分の顔を指差して呑気に自己紹介をする千石を、亜久津は奇妙な生き物でも見るような
目つきをして、大きく煙草の煙を吐き出す。
「それぐらい説明されなくても知ってる」
「え?嘘、マジ?亜久津、俺の事知ってくれてたの?」
「お前みたいな派手なヤツは、嫌でも覚えるさ」
 そう言うと亜久津は、興味を無くしたかのように視線を千石から外すと、のんびりと煙草
を吹かし始めた。その行動は「会話はここで終了。テメェとっとと消えろ」と無言で言って
いるようなものだが、先程の亜久津の発言に気を取られていた千石には通じなかった。
 亜久津が自分の事を知っていた。確かに教室で騒いで、部活で騒いでいるオレンジ頭とい
うのは目立つものだが、まさか亜久津の視界に入って亜久津が認識してくれていたというの
が信じられない。
 どうしよう…、めちゃくちゃ嬉しいんですけれど。
 何で自分がそんなに嬉しがっているのかはわからないが、嬉しいと感じてしまうのだから
仕方がない。同じクラスになるまで、意識にも止めなかった亜久津の存在が、今になって大
きく膨れ上がっている。それは多分、今みたいな表情で亜久津が外に視線を向けるからだろ
う。何もかも面倒くさそうに、ただぼんやりと。
 その姿を見て、千石も亜久津を習ってコンクリの壁に背中を預ける。亜久津の見ているも
のが何なのか、今ならわかるような気がしたからだ。他の場所に移動する気なんて更々無い。
 亜久津は一度こちらに視線を向けたが、何も言わなかった。物好きなヤツだと諦めたのだ
ろうか。それならそれでいい。
 そのまま二人、何も言わないまま並んで座っていた。聞こえてくるのは、亜久津の煙草を
吸う音。そして視界に入るのは、青い空と流れる白い雲。ただ、それだけ。
 空、しか見えない。
 その時、唐突に理解した。亜久津はいつも外の景色を眺めているのだと思っていたが、違
うのだ。亜久津はいつも、空を見ていたんだ。だけど、まだわからない所がある。何故亜久
津は、いつも空を見ているのだろうか。
「ねぇ亜久津、空…好きなの?」
「ああ?」
「ほら、教室でもいつも空を見ているでしょ?何でかなぁ、っていつも不思議に思っている
んだよねー」
 そう言うと亜久津は、短くなった煙草を床に押しつけて消した。
「見てんじゃねーよ」
「だって俺、亜久津の後ろの席だもん。見ちゃうって」
「大人しく黒板だけ見ていればいいだろ」
「そんなの無理―。だって気になるんだから」
 その言葉を聞くと、亜久津は大きく目を開いてこちらを見た。
「お前…何言ってんだ?」
「気になるんだ、亜久津の事。亜久津が何を見て、何を考えているのか知りたくなっちゃっ
たから」
「はぁ?」
「…くっ、ははははは。亜久津、変な顔―」
 理解不能といった表情を見せる亜久津がおかしくて、思わず笑ってしまった。いつも怒っ
ているか何にも興味を示さないか、そんな表情しか見せない亜久津が、自分の言葉で動揺す
るのが妙におかしい。笑いが止まらない千石を見て馬鹿にされたと思ったのだろう、亜久津
は眉を寄せると山吹中を恐怖のどん底に叩き落せるその凶悪な表情を見せて、千石の胸座を
掴んだ。
「テメェ、喧嘩売っているのか?」
「まさか。亜久津に喧嘩なんか売らないよ。俺が売りたいのは別の物なの」
 自分の胸座を掴んでいる手をやんわりと両手で握って、亜久津の真っ直ぐな視線を受けと
める。ああ、きっと皆は知らないんだろうな。亜久津の瞳は、とても綺麗だ。
「売りたいのはね、俺の愛」
 胸座を掴んでいた手をやんわりと外すと、恭しくその手を取って唇を落としてみた。亜久
津の手が、ピクッと動いて硬直したのがわかる。
「……何てね」
 そう言ってにへらと笑って顔を上げたと同時に、千石は思いっきり殴られた。
「痛いーーーっっ。亜久津ったら酷いーーーっっっっ」
「うっせえっっ!!ふざけんのもいい加減にしろっっ!!」
 思いっきり罵声をあびせると亜久津は勢い良く立ち上がって、屋上から立ち去るべく扉へ
と向かった。見ると、千石がキスした右手をズボンで思いっきり拭っている。
 ……ちょっとやりすぎたかな?
 殴られた頬を押さえながら、千石はその後を見送る。本当ならばそのまま後をついて行き
たかったが、さすがにダメージが強く今すぐ立ち上がる事が出来ない。持ち前の動体視力の
おかげで、とっさに首を捻ってダメージを削減してみたがこのザマだ。亜久津が最恐と言わ
れる程喧嘩が強いというのを、身をもって実感してしまった。何だかおかしくなって、笑い
ながら仰向けに転がってみる。
 ああ…本当に今日はいい天気だ。
「あーくーつー」
 扉の開閉音が聞こえないから、まだ亜久津は屋上から出ていないはずだ。千石は腹から声
を出して、彼の名前を呼ぶ。もう二度と、自分の中から忘れる事のない名前。
「明日からヨロシクねー。お昼とかも一緒に食べようねー」
 そう言ったと同時に「断るっ!!」と即答されて、勢い良く扉の閉まる音が聞こえた。その
返答が亜久津らしくて、千石はますますおかしくなって笑う。
 どうも当初の予定とは大分狂ってしまったが、亜久津に近づく事は成功したと言いたい。
明日からは、教室の中でも声をかけてみよう。亜久津は絶対に嫌そうな顔をするし、クラス
の連中は信じられない目付きでこちらを見てくるに違いない。亜久津がまた屋上にくる時は、
自分もついて行くんだ。そのまま屋上で、昼食をとるのも悪くない。
 なぁ、そうしたらわかるのかな。
 お前が見ている空の意味が、いつか俺にもわかるのかな。
 今、千石が見上げている空は、何処までも高くて広かった。それはまるで今の千石の心み
たいに、とても気持ち良く感じられた。