気がついたら、岩牢の中に閉じ込められていて。
 昔の記憶なんか、何一つ覚えていなくて。
 五百年ぶりに外に出られたと思ったら、今度は寺院の中に連れて来られたから。
 だから、知らなかったんだ。






 

 

 

 

 

「髪の毛って伸びるんだ」

 悟空の呆けた発言を聞いて、三人の動きは止まった。
 部屋の中は静けさに包まれ、窓の外を飛んでいる鳥の声が、やけに大きく聞こえてくる。

「……いきなり何言ってるんだ、お前…」

 最初に復活した悟浄が、不安気に尋ねる。

「え?何か変な事言った?」
「いや…だから髪の毛が伸びるって…」
「だって悟浄、髪の毛伸びてるじゃん」

 そう言われて一同の視線は、悟浄に向けられる。
 以前、潔く切った髪も今は大分伸び、肩口に届くぐらいになっていた。

「前は、すっげー短かったのに」
「そりゃぁ伸びるだろーよ。あれから何ヶ月経ったと思ってるんだ?」

 悟空の疑問に、悟浄が呆れて解説すると。

「でも悟浄の場合、人様よりも異常に伸びるのが早すぎですよね」
「エロ河童だからな」

 八戒と三蔵の突っ込みも、容赦なく追加された。
 確かに、この期間でここまで伸びるのは、幾ら妖怪でも早過ぎる。
 よく古来より、『スケベな奴程髪の毛が伸びるのは早い』と伝えられてるが、それが正し
 かったという事を証明したようだ。
 だが、いくらスケベでも並大抵のスケベ程度では、ここまで伸びる速度は早くないだろう。
 さしずめ、恐るべしエロ河童といったところか。

「……スケベだと、髪の毛が伸びるのか?」
「いやぁ。世の中にはスケベでハゲている方も山程いますから、そうとは言いきれないんで
 すけど…」

 スケベで髪の毛が伸びるのならば、世の中のハゲで悩んでいる人達は、喜んで今日からス
 ケベ人生を歩む事だろう。

「結局のところ、体質ですね」

 八戒が、先程から続いている間抜けな会話のせいで、すっかり冷めてしまったお茶を啜り
 ながら微笑んだ。

「海草を食べたり、頭部を刺激したりすると良いらしいんですけど、毛根が死んでしまって
 いたら、どうしようもないですし」
「…何時まで、ハゲの話が続くんだ?」

 新聞から視線を逸らさないまま、三蔵が不機嫌な声で呟いた。
 ここで誰かが話の腰を折らないと、延々ハゲ話が続いてしまうことだろう。

「でも三蔵。こういった知識を知っておくと、いざという時便利ですよ?」
「必要ない」
「何そんなにムキになるんだぁ?あ。もしかして、触れられたくない話題だったとか」
「死ぬか?」

 悟浄の額に銃口を突き付け、三蔵が冷淡に死の宣告をする。
 指の力加減から本気だと悟った悟浄は、引きつった笑いで頭を左右に振った。

「悟浄は相変わらず、一言多いですねぇ」

 やれやれといった感じで、八戒は苦笑する。
 まさしく「アンタがそれを言うかっ」の世界で、三蔵と悟浄は心の中で突っ込んだ。
 八戒の暴言で何となく気が削がれた三蔵は銃を懐に戻し、変わりに煙草の箱を取りだして
 椅子に座りなおす。

「……で?」
「何?」
「何で急に、髪の毛の話をしだしたんだ?」

 煙草に火をつけながら、三蔵は悟空に問う。
 最初に、この妙な話題をふったのは悟空なのだ。

「だから、悟浄の髪が伸びてるの見てさ、髪の毛って伸びるんだなーって思って…」
「ようするに、この現実を目の当たりにするまでは、そんな事実に気がつかなかったと…」
「うん」

 勢い良く、元気に良い子の返事をする。
 それを聞いて、三人の溜息は一つになって重く吐き出された。

「三蔵…お前どういう教育してるんだ?」
「一般常識の教育の何処に、こういった項目があるんだっ」

 確かに、『何故、人の髪の毛は伸びるのか』等という内容はないだろう。
 こういったものは、積み重ねられていく人生経験から学んでいくものだ。

「環境が悪かったんですよね」

 八戒が慰めるように、さらりとスゴイ事を言う。

「どういう事だ?」
「ほら。悟空は五百年もの間、普通の人間だったら絶対に行かない、秘境中の秘境。結界だ
 らけの岩牢に閉じ込められていましたし、それ以前の記憶も無くしてしまいましたし…」
「それで?」
「やっと出られたと思ったら、今度はこんな寺院の中ですしね」
「ああ…成る程ね」

 八戒の言わんとしている事が理解できて、悟浄は頷いた。
 寺院とは、坊主が集団で生息している場所だ。
 坊主の集団。即ち、ハゲの集団でもある。

「そりゃあ、髪の毛が伸びるかどうか、わかんねーよなぁ」
「でも、三蔵の髪の毛が伸びてるの、見た事ないよ?」
「俺は定期的に自分で切っているから、そう見えるだけだろ」
「ふぅん?」

 悟空は、わかったような、わからなかったような返事をして、後ろで一つに纏めた自分の
 髪に触れる。

「じゃあ、俺の髪の毛も伸びてるの?」
「毛根が絶望的でなければ、伸びていますよ」
「…全然変わらないのに?」

 自分の髪の長さは、あの岩牢に閉じ込められている時と、何ら変わらないような気がする。
 だから、髪の毛が普通伸びるモノだとは、気づかなかったのだ。

「悟空の場合、髪の毛が長すぎて、わかりにくいのかもしれませんね」

 八戒の言葉に、悟空は顔を上げる。

「いいですか悟空。悟浄の伸びる早さは異常なんですから、気にする事ないんですよ?ハッ
 キリ言って、参考にはなりませんから」
「おいおい…」

 あまりの言われように悟浄は思わず突っ込んだが、八戒はその言葉を無視して話を続ける。

「伸びる早さは人によって違いますからね。悟空はきっと、ゆっくりと伸びていく方なんで
 すよ」
「そう…なのかな?」
「そうですよ。でも、おかげで一つわかった事があるじゃないですか?」
「え?何?」

 八戒は満面の笑みで言ってのけた。

「悟空はスケベじゃないって事ですよ。良かったですね」

 瞬間、部屋の中の時が再び止まった。

「…は…八戒さん……?」
「いやだなぁ。軽い冗談ですよ」

 いいや。今のは絶対に本気だった。
 微笑む八戒の姿を見て、三人は強く確信していた。







 

 

 

 

 

 

 

 

「……やっと帰ったか」

 溜息をついて、三蔵は玄関のドアを閉めた。
 フラリとやって来たかと思うと、騒ぐだけ騒いで帰っていく。

「まるで台風のような奴等だ…」

 だが、まだ台風の方が可愛いものだと思うのは、気のせいだろうか。

「ん?」

 部屋に戻ってみると、先程まで床に寝転んでいた悟空の姿が見えない。
 寝室に戻ったのだろうか。

「悟空」

 声をかけながら、寝室に続く扉を開く。
 灯りもつけていない暗闇の部屋の中。
 射しこむ月の光だけが、うっすらと部屋の中を照らしている。
 その微かな光で、三蔵は悟空の姿を確認した。

「……何やっているんだ、このバカ猿」

 声に少し怒気を含ませて呟く。
 足音を荒立てて近づくと、悟空の手に持っていた物を奪い取った。
 それは、鋭利なハサミだった。

「何やっていたのかと聞いているんだ」
「髪切ってた」

 悟空は、月に反射する瞳を見上げて言った。
 その姿を見ると、確かにいつも後ろで揺れていた髪が、バッサリと切られている。
 床には、纏められたままの髪の房が落とされていた。
 何で。
 とは問わない。
 理由はハッキリとしすぎていて、聞くだけ無駄だった。

「バカ猿…」
「バカバカって言うなよなっっ」
「バカじゃなかったら何なんだ。見ろ。鏡も見ないで、こんな暗闇で切ったから、髪の毛先
 がバラバラだ」

 そう言って、少し荒っぽい仕種で悟空の髪を掻きまわす。
 いつもならば纏わりつく髪が、スッ…とすり抜けていく。
 何だか、少し物足りない想いがするのは、この短さに慣れていないからだろう。

「悟空」
「何?」
「向こうの部屋に行って、新聞紙取って来い」
「え…でも、新聞ならさっき読んでた…」
「早く行け」

 足で悟空を追い出して、三蔵は寝室の照明をつけた。
 床に落ちていた悟空の髪の房もついでに拾う。

「子供らしい発想だな…」

 そう呟いて、その髪の房をゴミ箱に入れた。
 それと同時に、新聞紙を手にした悟空が、部屋の中に入ってくる。

「三蔵。新聞紙持って来たよ」
「よし。そこの椅子を持って、ここに来い」
「うわっ。エラソー」
「阿呆。俺は偉そうじゃなくて、偉いんだよ。いいから、早くこっちに来やがれ」

 訳もわからないまま、片手に新聞紙。もう片方に椅子を持って、悟空は三蔵の元に近づい
 ていく。

「よし。新聞紙を床に広げて…。そうだ。その上に椅子を置いて、向こうを向いたまま座れ」
「何するの?」
「髪切るんだよ」

 その言葉を聞いた悟空は、驚いて振り返った。

「三蔵がっ?」
「向こうを向けと、言ってるだろーがっっ」

 何処からか出してきたハリセンで、勢い良く悟空の頭を殴りつけて三蔵は怒鳴った。

「こっちはハサミ持っているんだっ。気をつけろ」
「うん…御免…。でも、三蔵が俺の髪切ってくれるなんて思わなかったからさ…」
「切りたかったんだろ?」
「もう、自分で切ったよ」
「それは、この変な髪形を自分の目で見てから言うんだな」
「別に、気にしないのに…」
「俺が気にするんだよ」

 悟空の保護者として存在している三蔵だ。
 こんな変な髪形を見て、周りから何か言われるのは自分の方に決まっている。

「いいから、じっとしてろ」
「……うん」

 そんな会話を繰り返している間にも、三蔵の操るハサミは器用に動いて、悟空の髪の毛を
 切って行く。
 それから二人とも無言になって、只、心地良いハサミの音だけが部屋に響いている。
 悟空は目を閉じてハサミの音に耳を澄まし、時々触れる三蔵の手の温もりを感じていた。
 何で聞かないのかな。
 心地良い感覚の中で、ぼんやりと悟空は思う。
 何で髪切ったのかって、聞かれるのかと思ったのに。
 それどころか、呆れていただけで怒りもしなかった。
 何でだろう。
 何でかな。

「終わったぞ」

 三蔵の声に、悟空は目を開けた。
 鏡がないので、夜を写している窓で、自分の姿を確認してみる。

「うっわー。すっげースッキリしてる」

 長かった髪の面影も無く、窓ガラスに映し出された悟空の髪は、気持ちが良い程短くなっ
 ていた。

「首がスースーする」
「まぁ、それだけ短くなったら、そうなるだろうな」
「何か変な感じ…」
「余計、猿に近づいたな」
「何だよ、それ」

 頬を膨らませて、抗議の声をあげる。
 でも何だか、妙に軽くなった気がする。
 髪の重さじゃなくて、心が。
 三蔵に切ってもらったからだろうか。

「伸びたら、また切ってやるよ」

 三蔵の言葉に、悟空は振り返った。

「何度でも切ってやる」

 背中を向けて新聞紙に落ちた髪を片付けているため、どんな表情で言っているのかはわか
 らない。
 だけど、その言葉の中に含まれた想いに、悟空は何となく気づいた。
 ああ。
 最初から、わかっていたんだ。
 自分が突然、髪を切ったワケを。
 伸びているのかわからない髪を見て、悟空は不安になった。
 只、成長が遅れているだけならいい。
 だけど、もし。
 もしも、岩牢に五百年閉じ込められていた時のまま、自分の中の時間が止まっていたら如
 何し様かと。
 このまま、周りだけ時間が流れて、また一人取り残されるんじゃないかと。
 不安になってしまったんだ。

「……うん。また三蔵に髪切ってもらう」

 悟空は満面の笑顔で言う。

「約束だからな。その時になって、嫌だなんて言わせねーからなっ」

 それを聞いて、三蔵はまた悟空の頭を掻きまわす。

「だったら、さっさと伸ばせ。でないと気が変わるかもしれんぞ」
「でも俺、悟浄みたいにスケベじゃないもん。そんなに早く伸びないよ」
「安心しろ。その協力ならしてやる」

 そう言って三蔵は、悟空の額に口付ける。

「まずは、一緒に風呂…だな。お互い毛だらけだ」

 確かに二人の体には、小さな毛が沢山へばりついている。これは、風呂で洗い流さないと
 取れないだろう。
 でも。

「…何で一緒なんだよ……」

 悟空は顔を見上げて、三蔵に問う。
 その姿が可笑しかったのか、三蔵は唇の端を上げて薄く笑う。

「言っただろ?協力は惜しまないって」

 それを聞いて、悟空は顔を真っ赤にして言った。

「三蔵が一番スケベだ」
















 数ヶ月後。
 家の庭で、約束通りに悟空の髪を切る三蔵の姿が、寺院の者達に目撃されたという。