「三蔵。アレは何?」
本日何度目かわからない悟空の質問に、三蔵は重く溜息を吐き出したくなった。 日暮れ前の山道。 帰路につく足取りは先程から一向に進まず、辺りはゆっくりと夜の姿を見せ始めている。
(やはり連れてくるんじゃなかったな…)
三蔵は自分の考えの甘さに、今更ながら後悔していた。 近くの町までの用事が出来たついでに、何時も寺院の中に閉じ込められていては窮屈だろ うと、珍しく仏心を起こして、悟空も一緒に連れて行ったのだが。 この時点で、自分の失態に気づくべきだったのだと思う。 滅多に寺院の外に出してもらえない悟空にとっては、目に映るもの全てが不思議だった。
「なぁ。何であんな事しているわけ?」 「どうしてそうなるの?」 「ねぇ何で?」
自分の知らない事を目にするたびに、悟空は三蔵に素朴な疑問を投げかけていく。 最初は根気良く付き合っていた三蔵だが、悟空の抽象かつ独創的な質問内容についていけ ず、後半になると敢えて黙殺していた。 例えば、それは道端に落ちていた只の小石の存在だったり。店に立て掛けていた看板だっ たり。木陰で休む人の存在だったり、風に揺れて音を鳴らす玩具だったり。 飽きることなく、それらを眺めては立ち止まるので、必然的に歩く速度が遅くなり、本来 ならば当の昔に寺院に着いているはずの時間帯なのに、まだこんな山道の中にいる。 そして、先程の質問だ。
「いい加減にしろっっ。この馬鹿猿っっ」
心地よい音とともに、悟空の頭上にハリセンが振り落とされる。
「痛ってぇなっっ。何すんだよぉ」 「口ばっか開いていねぇで、足を動かせ足をっっ」 「だって、アレが何か知りたいもんっっ」
そう言って悟空は、目の前に広がる景色を指差した。 夕焼けに染まった山の姿は何時もと何ら変わりなく、悟空の興味に降れるものは何一つな いように見える。
「何もないじゃねぇか」 「違う。山じゃなくて、その上」
悟空は必死になって、その場所を指し示す。
「あの、空」
悟空が指し示したその空には、不思議な色の調和が映し出されていた。 もうすぐ役目を終える太陽の色と夜の色が静かに交じり合っている、その色。 例え、どんな素晴らしい技術を持った職人でも、その色だけは作り出せない、自然の色。
「あれさぁ、何色って言うんだ?」
悟空の言葉に、三蔵は少し過去を思い出した。 遠い昔、あの人と一緒にこんな空を見た事がある。 あの時、今の悟空と同じような事を考えた自分に、あの人はこう教えてくれた。
「黄昏色だ…」 「たそがれ…いろ?」
三蔵が言った言葉を、悟空は不思議そうに口にする。
「造語だけれどな」
言葉として認識されている色では言い表せない、黄昏時の空。 だから、黄昏色。 簡単な言葉だが、その言葉の持つ意味と響きが、この空の色に在っていると、あの人は教 えてくれた。 今なら、その気持ちも少しはわかるような気がする。
「きれいな色だね」
本当に嬉しそうに、悟空はその暮れていく空を見ている。 何時もならば見逃していた空の色。 あの人との、懐かしい思い出。 子供の視線だからだろうか。 悟空は自然にそれらを見つけ、三蔵に与えてくれる。
「なぁ。だったら三蔵の瞳の色も、黄昏色って言うの?」 「どうしてだ?」 「えー?だって三蔵の瞳って、ほら。ちょうど、あそこの空の色に似ているもん」
大発見。といった感じで、悟空は三蔵にその色を教える。 その場所は特に夜の部分が強くて、でも何処となく優しさが感じられる色。 悟空の視線からは、あのような色に見えているのだろうか。 自分には、とても似合わない色に見えるのに。
「三蔵は、空で出来ているんだね」
突然、意味のわからない事を言う。 それが顔に出ていたのか、雰囲気を感じたのか、悟空が言葉を続ける。
「太陽の髪に、黄昏色の瞳。ほら、三蔵って空と同じじゃん」
満面の笑顔で悟空は言う。 それを見て、その言葉を聞いて。 三蔵は、どう応えてやればいいのかわからなかった。 ただ、体の奥底から滲み出てくるような、この言い様のない想い。 これは何と呼べばいいのだろうか。 何と呼ぶものなのだろうか。
「あ。お月さまだ」
周囲はすっかり夜になっており、空には黄金に輝く満月が浮かんでいた。
「太陽は朝とお昼で、黄昏は夕方だろ?これで夜もあったら、完璧だったのになぁ」 「夜ならあるだろ?」 「え?何処に?」
そう言って、三蔵を見上げる睫毛の下に、二つの黄金の月。 夜は、ここにある。 この手の触れる場所に。
「なぁ、三蔵。三蔵の夜って何処?」 「…ここじゃあ暗くてよくわからないからな。何処か明るい場所に行かないと」 「だったら早く帰ろうぜ」
今まで誰のせいでこんなに遅くなったのだろうか。 悟空は駆け足で山道を駆け上っていく。
「早くしろよ、三蔵っっ」 「ったく、馬鹿猿が…」
文句を言いながら、三蔵は悟空の後に続いて家路へとつく。 そして心は、悟空に夜の場所をどうやって教えるかと考えていた。