「三回目のデートまでに手を出してこない男は駄目です」

 テレビに映っている女優がそんな事を言っているのを、出勤前のカカシは何気に聞いてい
 た。
 その女優が言うには、向こうから誘ってきたくせに、何も無いままデートが終わる事が三
 回も続けば、この後永遠に何もないままで終わってしまうらしい。
 カカシは何とも言えぬ気分のままテレビのスイッチを切り、荷物を持って家を出ていく。
 低血圧で朝は何時も最悪気分なのに、今日は更に輪をかけて絶不調だ。
 無言のまま集合場所へと向かうカカシの胸中はグルグルと、先程の女優の言葉が渦巻いて
 いた。
 三回目のデートまでに手を出してこない男は駄目です。
 ならば、もう両手を越えるぐらいの回数のデートをしているのにもかかわらず、何の進展
 もない自分達はどうしたら良いのだろうか。
 カカシは、人畜無害な顔をしている自分の想い人の顔を思い浮かべて盛大な溜息をつき、
 ほてほてと今日の任務の集合場所へと歩いて行った。


 

 

 


「…何かあったんですか?」
「別に。何でもないです」

 一日の労働も無事に終了し、イルカとカカシは何時もの居酒屋で何時ものように食事をし
 ていた。ただ何時もと違っていたのは、二人の間に流れる只ならぬ空気だろう。というよ
 りも、カカシから感じられる絶対零度のような雰囲気か。
 イルカはビクビクとしながらも、取り敢えず目の前に並べられている料理に手をつける。
 ここの居酒屋は酒だけでなく、心温まるお袋の味の料理も絶品だ。今夜の日替わり定食は
 肉じゃがである。ほくほくとしたじゃが芋が、この周囲に漂う空気を温めてくれているよ
 うな気がしてしまう。
 お互い無言のまま、黙々と料理に手をつける。
 賑やかな居酒屋の中で、この二人の周囲だけが異世界を醸し出しているのは気のせいでは
 ないだろう。
 自分が何かしたのだろうか…?
 イルカは肉じゃがの中に入っている糸蒟蒻を食べながら必死に考えた。
 今日、第七班の任務が終わったと聞き、何時ものようにカカシを夕食に誘った。カカシと
 出会い、お互いの気持ちも通い合った時から約束事のようになっている夕食の誘いである。
 それに関して、別に何も変わった事はなかった。と思う。
 なのに何だろう、この空気は。
 はっきり言って怖い。恐怖以外の何物でもない。
 無言の抑圧が自分に圧し掛かっている気分だ。
 心を落ち着けるために、副菜であるほうれん草のおひたしを食べようと醤油に手を伸ばし
 た時、偶然にも同時に手を伸ばしてきたカカシの細い手に触れた。

「すっすみませんっっ」

 真っ赤になって、慌てて手を引っ込める。今時、手が触れただけでここまでの反応を返し
 てくれるのも珍しいのではないだろうか。
 しかしその反応を見て、カカシは更に周囲に纏った空気の質を変えてしまう。

「……カカシ先生?」
「お醤油、使われないんですか?」
「あ…頂きます」

 カカシが差し出した醤油を取ろうと手を出すと、醤油を挟んでカカシの両手がイルカのそ
 の手を掴んだ。

「あっあのっっ?」
「イルカ先生…」
「はいっ」

 手をしっかりと握ったまま見つめられる。それだけでイルカの心音は煩いほどに高鳴って
 しまう。
 一体何なんだろう。
 緊張しながらもイルカは、カカシが次に何を言うのか大人しく待った。

「……俺もね、我慢の限界なんですよ」
「はい?」
「俺の魅力に先生がメロメロになってくれているのには気づいています。それは嬉しいで
 す。ですがね、そこまで過剰に反応するのもどうかと思うんですよ」
「はい…」

 何だか凄い事をサラリと言われたような気がするが、取り敢えず黙っておくことにした。

「俺達、今日で何回目のデートになりますか?」
「えー…と、二十六回ぐらいですか?」
「その通り。そのウチの十八回はイルカ先生から誘ってくれました」

 聞いているものがいたら、数えているんかいっ!と突っ込みを入れる所だがここは居酒屋。
 周囲には酔っ払いしか存在せず、この異色カップルのラヴシーンなど誰も見ていなかった。
 ちなみにこんな会話が進められているのにも関わらず、まだ醤油は握られたままである。

「なのに、まだ何もないなんて変じゃないですか?」
「何も…って?」
「普通のカップルならば、初日にだってやっている時代でしょ?」
「あ、あの…?」

 会話が見えない。
 一体この人は何を言っているのだろうか。

「好きな相手なら…」

 少し間を置いて、カカシは言葉を続けた。

「好きな相手なら、体の奥でも感じたいと思いませんか?」

 その瞬間。
 握りあった手の中から、聞こえてはならない音が聞こえた。

「ちょっ…イルカ先生っっ!?」
「え…?あああああっっ」

 カカシの声でイルカは、自分の身に一体何が起きたのかやっと把握した。
 握り合った手の中にあったのは醤油の瓶。
 それが握り潰されて、机の上が醤油まみれになっていた。
 いやそれよりも素手で握り潰したので、イルカの手は幾つもの破片が突き刺さっており、
 見ている方が痛くなりそうな傷を負っていた。

「何ボーッとしているんですっ。痛くないんですか?」
「痛いです…」

 確かに痛い。だがそれよりもイルカは先程のカカシの言葉に気を取られて、手の痛みとか
 周囲に漂う醤油の匂いにまで気が回らないのだ。
 こういう事態に陥ったとき、当事者よりも第三者の方が行動を起こすのが素早い。
 そうしている間にも、目の前でカカシが店のおばちゃんから借りた布巾を手にして、テキ
 パキと醤油と硝子破片に浸蝕されている机の上を片付けていく。その動きは、さすが上忍
 と唸ってしまう程の早さだった。

「すみません…カカシ先生……」

 申し訳なくなって、小声で誤ってしまう。しかしそれを聞いてカカシは、何時もと変わら
 ない笑顔で応えてくれた。

「いいです。変な事を言った俺も悪いですから。何かテレビとか見ていたら、年甲斐もな
 く焦っちゃったみたいですねー」

 そう言って、イルカの傷を負った手を取り、携帯している薬と包帯で応急処置をする。

「思ったより傷が深くなくて良かった」
「…有難うございます」
「でも一番の問題はこっちですよねー」

 そう言って自分とイルカの服に染み込んでしまった、醤油の被害を見てカカシは苦笑する。
 黒い服なので目立ちはしないが、醤油臭い。こんな匂いをつけたままでは、任務など出き
 るワケがない。
 イルカは少し考え、顔を赤らめながら一つの提案をした。

「あの…ここからだと俺の家が近いので……。その……寄って洗濯していきませんか?」

 その言葉を聞いて、カカシは暫く動きを止めてしまった。先程までの会話の流れからいく
 と、それはそういう事というワケで。

「それって、そういう風に取っても良いんですか?」
「そのつもりで言ったんです」

 色気もなにも無い言葉だ。
 だが、それがイルカの精一杯だという事にもカカシは気づいている。

「あっ。嫌だったら別に良いんですけど」
「嫌なワケないじゃないですかっ。是非お邪魔させて貰いますっ」

 こんな好機を逃すはずがない。
 カカシは満面の笑みを浮かべ、イルカの誘いを受け賜った。
 今時、こんなにも奥手な人も珍しいとは思う。そこがイルカらしいと言ったららしいのだ
 が、やはり待たされている身としては不満も溜まるというもの。
 こうなったら今日のように、これからもそういう風な展開に仕向けて行けば良い事だろう。

「お家にお邪魔するんですから、特別に良い事を教えてあげましょうか?」
「良い事ですか?」
「はい」

 悪戯めいた笑みを浮かべ、カカシはイルカだけに聞こえるように囁いた。

「俺ね、明日お休みなんですよー」

 それを聞いてイルカは真っ赤になりながら椅子に躓いてこけた。