香ばしい匂いを感じ、鼻をピスピスと動かしてミュウはゆっくりと目覚めた。
寝ぼけ眼で周囲を見渡してみれば、部屋の持ち主であるルークの姿が見えない。
それに気付いた瞬間、先程までミュウを包んでいた眠気は吹き飛び、慌ててルークが寝てい
たではずのヘッドの上をポンポンと叩いた。シーツは冷えており、どうやら随分前に部屋か
らいなくなっているようだ。
「みゅぅぅ〜!ご主人様どこに行ったんですの〜!!」
「こっちだ、ミュウ」
ミュウが叫ぶと、意外にもすぐに返事がきた。ミュウは慌てて声がした方を向くと、テラス
に繋がる窓が僅かに開いている。どうやら先程から感じていた匂いも、そこから漂っている
ようだ。
ミュウは、えいっ!…とベッドから飛び下りると、全速力でテラスに向かって走り出した。
開いていた窓の隙間を通り抜けると、暖かい日差しに目を瞬かせてしまう。
「やっと起きたかミュウ。ていうか、お前騒ぎすぎ」
「ご主人様!」
苦笑しているルークに向かって、ミュウは勢い良く飛びついた。
「ご主人様ご主人様。姿が見えなかったから心配したですの。ここで何しているんですの?」
「ん?見たまんま。アッシュと朝食とっていた」
「みゅ?」
ルークに言われて見てみれば、確かにテラスには小さなテーブルが置かれており、そこには
美味しそうな食べ物が並べられいた。そしてその向い側には、呆れ果ててこちらを見ている
アッシュがいる。
「…朝から賑やかだな」
「はいですの!ミュウは元気ですの!」
アッシュの皮肉を全く理解しなかったミュウは、その言葉の通りに元気に答えた。そんな一
人と一匹を見て、ルークは思わず笑ってしまいそうになる。しかしアッシュに気付かれると
絶対に不機嫌になると思い、珈琲を飲む事で誤魔化す事にした。
その匂いにミュウは、それが部屋まで届いていた匂いだと気付き、興味深々にカップを覗き
込む。
「みゅ?ご主人様、何を飲んでいるですの?」
「何って、ただの珈琲だよ」
「珈琲?」
「ほら。旅していた時に、ガイやジェイドがよく飲んでいただろ」
そう言われてやっと、ミュウはその飲み物がいったい何なのか思い出した。
「真っ黒色をした、大人の飲み物ですの!みゅ?でも、ご主人様の珈琲は真っ黒じゃないで
すの」
確かにルークが飲んでいる珈琲は、真っ黒というよりも薄茶に近い色だった。ミュウに指摘
され、ルークは苦虫を噛んだような表情をする。その表情を見たアッシュは、意地悪そうに
唇の端を上げた。
「珈琲と言うよりも、珈琲牛乳だからな」
「ほっとけっつーの!ミュウもそんなトコを思い出すんじゃねぇっ!」
「みゅぅぅ〜?」
いきなり怒鳴られても、ミュウには何が何だかさっぱりわからない。とりあえず、珈琲には
いろんな色があるんだな、という事だけは理解した。
「ご主人様ご主人様。ミュウも、その珈琲が飲みたいですの」
「はぁ?何言っているんだ、お前」
「ご主人様だけ、大人の飲み物を飲むのはズルイですの〜。ミュウも飲みたいですの〜」
耳をパタパタと動かしながら、ミュウは必死に訴える。前回の旅の時は、子供だからという
理由で、ルーク共々珈琲を飲む機会を得る事が出来なかった。
だが、今ルークは珈琲を飲んでいる。
なら、自分も飲みたい。
「珈琲ぐらい構わないだろ。所詮は、豆の煮汁だ。草食のチーグルに害があるとは思わない
ぞ」
「そうだけどさ、俺の珈琲は何か害がありそうだしなぁ」
牛乳だけでなく、砂糖もたっぷりと入った珈琲は、はたしてチーグルが接種しても良いもの
だろうか。
カップの中に投下された砂糖の量を思い出し、それもそうだなとアッシュは思った。
「だったら俺の分を飲むか?」
「えっ!?」
「いいんですの?うわーいですのー」
その言葉に喜んだミュウは、ルークから離れると急いでアッシュの元へと走った。
一方ルークはと言うと、アッシュの珍しい好意が気持ち悪い事と、アッシュの珈琲の中身を
思い出して、それはちょっと無理じゃないのか?と考えてしまった事により、行動を停止し
ていた。
そうしている間にも、ミュウはアッシュからカップを受け取り、キラキラとした表情で珈琲
を眺めている。その珈琲の色は、闇のように黒かった。
「ミュウ、やっぱり止め…」
「いただきますですの〜」
止めようとしたルークだが、時既に遅く、ミュウはその中身を一口含んだ。
次の瞬間。
ミュウの耳はピンッと伸び、体はカタカタと小刻みに震える。大きな瞳からは、涙がボロボ
ロと溢れ出てきた。
それを見たルークは、慌ててテーブルに備えられていた紙ナプキンを掴み、まだ持っていた
ままのカップをミュウから奪い取り、その紙ナプキンをミュウの口に押し当てた。
「ミュウ!ペッてしろ、ペッて!」
「〜〜〜っっ!!」
口の中の珈琲を吐きだすように言うが、ミュウは涙を零しながら首を振る。
「馬鹿!苦いんだろーが!いいから吐き出せ!」
それでも吐き出さないミュウに、ルークの方が泣きそうになってきた。そんなやりとりを前
に、騒ぎの元凶であるアッシュは、何だか凄い事になったな、と他人事のように考えていた。
ルークとミュウの騒ぎっぷりに、何だか妙に冷静になってしまったようだ。
それにしても、何故ミュウはここまで頑なのだろうか。
「…何か、吐き出したくない理由があるんじゃないか?」
ふと思いついた事を言ってみると、その言葉で何かを思い出したのか、ルークが目を大きく
見開いて、ついでに口も大きく開けてアッシュを見た。そして次に真剣な表情をすると、だ
んだん顔色が悪くなってきたミュウに力強く言った。
「ミュウ、大丈夫だ!もったいないオバケが出ても、俺が追い払ってやる!」
それを聞いたアッシュは、テーブルに思いっきり額を打ちつけた。しかし、そんな面白い出
来事にルークとミュウは気付かないまま、二人の世界を繰り広げている。ミュウは、尊敬と
愛情を込めた視線でルークを見上げ、ルークは無駄に男前だった。
その言葉に安心したのだろう、ミュウはやっと口の中に停滞していた珈琲を、紙ナプキンに
吐き出す事ができた。
「…ミュウ!」
「…ご主人様!」
ひしっ、と抱き合う光景はとても美しく、見た者を感動の渦へと引き込むだろう。それまで
の過程さえ見ていなければ。
「…おい。何なんだ、そのもったいないオバケというのは」
額を押えながら、アッシュは地の底から聞こえてくるような低い声で尋ねた。
「え?知らないのか、アッシュ。好き嫌いをして食べ物とか残すと、夜中にもったいないオ
バケが包丁持って現れて『悪い子はいねがー!』って襲ってくるんだぜ」
「ですのー」
「…誰が言ってた?」
「ジェイド」
「ですの」
そうか。あの眼鏡か。
おそらく、旅の間に好き嫌いが激しいルークを窘める為についた嘘だろう。
しかし他に何かなかったのだろうか。明らかにその話は、もったいないオバケ以外のオプシ
ョンがついているぞ。どうせその話を聞いて怯える屑達を見て、楽しんでみただけだろ。そ
して何故そんな嘘を信じるんだお前らは。
いろいろな理由で痛む頭を押え、アッシュは引きつった笑みを浮かべながら、とりあえず、
今度グランコクマに行く時は、あの眼鏡を殴ろうと心に決めたのだった。